ソラ駆ける虹
世界はやさしくまわっている
鼻先にぼたりと落ちた雨粒に驚いて、はぎゅっと身をすくめた。
雨宿りさせてもらっている軒先。その、少しでも奥に入ろうと、壁に背を押し付ける。
見上げる空は曇天だ。突然振り出した雨は、何の用意もしていなかったの不覚を叱責するかのように、容赦なく彼女を濡らしていた。運よく見つけた軒先に避難したのは、ついさっきのこと。
ほっと一息つく。バッグで頭をガードして、多少の雨粒は防いだが、そのせいで、逆にかばんはびっしょりと濡れていた。撥水加工がされているものだから大丈夫とは思うが、念のためと、取り出したハンカチで軽くぬぐう。
バシャ。
地面を蹴る音がして、一人の影が軒先に飛び込んできた。どうやら同じように、運悪く雨に降られた人間がいたらしい。走りこんできた少年は一度ぶるりと身を震わせると、ひどくつまらなさそうに天を仰いだ。
ぽとり、ぽとり。
その髪から、雨粒が落ちる。少年はとは違い、かばんを盾にはしなかったらしい。その上より長時間雨に降られていたのだから、髪から水が滴るほどに濡れていた。
春先の雨は、ひどく冷たい。
「あの、良かったら、これ」
差し出したのは、先ほどバッグを拭いていたハンカチだった。タオル地のハンカチは少し湿っていたけれど、雨をぬぐうには充分使える。無いよりはマシだろうと思って言ってみたのだが。
「――、いらない。アンタだって濡れてるじゃない。自分で使えば?」
無愛想に突っぱねられた。
そう言われると、こちらとしては言いようが無い。でも、隣でずぶぬれの人がいると思うと気になるのだ。困ったように笑うと、少年はふんと鼻先で笑った。
「お節介だね」
嘲るような口調に、更に困ってしまう。
この年頃の男の子にしては、ずいぶん大人びた少年だった。冷たい視線。その上、口も悪そうだ。どうにも反応に困っていると、少年は片手に持ったスポーツバックから、大き目のタオルを取り出した。
――なんだ、持ってたんだ。
だったらさっきは何で使わなかったのだろう? そう考えていると、顔に出ていたらしい。不機嫌な仏頂面で少年はに言い放った。
「ボクの勝手でしょう」
確かに、そう言われてしまうと見も蓋もない。苦笑して、はそれ以上干渉するのを止めた。ちゃんとタオルで拭いたみたいだから、風邪の心配も無いだろう。だったら、これ以上立ち入るのは、見知らぬ通行人を相手に、おかしなことだと思ったからだ。
ざあざあと雨が降る。激しい降りだったが、通り雨だ。そのうち止む。けれど予定の時間に間に合わなさそうだと、ため息と共に、は腕時計を眺めた。
(……遅刻かな)
連絡をした方がいいかもしれない。
この春から始めた、新しい習い事の教室。そこに向かう途中だったのだ。余裕をもって家を出てきたつもりだったが、いつもは降りない駅、慣れない道を歩いたせいか、予定より遅れてしまっている。さらにこの雨だ。どうにも間に合いそうに無かった。楽しみにしていただけに、落胆も大きい。
ふぅ、とため息をつくと、見切りをつけて、携帯を取り出そうとかばんを持ち上げるた。……と、横から、ぐいっと何かを押し付けられた。細い、棒状のこれは――?
「え?」
「いらない。だから、捨てといて」
言うと、少年は雨にも関わらず走って行ってしまった。その後姿を、は呆然と見送った――なんだ、これ。
まるでテレビの中みたいな状況に、ついていけなかった。
「…………ええと」
どうにもリアクションに困って、手にしたものをじっと見た。深いグリーンの折り畳み傘は、確かにミワの手に収まっている。
気がつくと、いつの間にか小雨になっていた。暗い空が、少し明るくなっている。細い、糸のような雨の中を、は傘を差して歩いた。
傘には小さなネームプレートがついていた。少年の母によってだろうか? そこには、大人の女性のものらしい、優しさの感じる文字で、一つの名前が書かれている。
――あの制服は、この近くの学校のものだったはずだ。
捨てておけと言われたけれど、その通りにするつもりは、勿論には無かった。いらないとか言っていたが――素直じゃない。
それに、一言礼を言わないと、こちらの気がすまないじゃないか。
「あ、」
風に流れて、雲が動いた。
その隙間から、小さな光が差し込んでくる。その中を、七色の光が駆ける。
「――虹だ」
ちょうど少年が駆けていった方向に、きれいな虹がかかっていた。――彼もあの虹を見ているのだろうか? ふと、そんな考えが浮かぶ。
もうすぐ、雨も止む。
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