あの日と同じ夕暮れの中で。
肩にもたれかかる千尋を見て、那岐はほんの少し目を細めた。
「なに?」
「……別に」
首をかしげて問う千尋に、短く那岐は応える。
そうして視線を外すと、自分を伺い見る千尋の気配が感じ取れた。それでも無視を決め込む。
しばらく何か言いたげにこちらを見ていた千尋であったが、やがて大きなため息と共に視線を元に戻した。
長い付き合いのせいか、こういった時の呼吸は、それは見事なものだ。まるで何も無かったかのように、自然に二人は寄り添っている。
そよりと、優しい風がふいた。それに応えて、さわさわと木の葉の鳴る音がする。
晴れた空にはぽっかりと白い雲が能天気に幅をきかせて浮かんでいる。それを何となくぼんやりと見つめる。
呆れるほど平和な時間だ。ついこの間まで、戦に明け暮れ住処を転々としていた頃とは打って変わったように平穏な時だった。
ふいに、淡い光が目に差し込んだ。反射的に目をかばう。
それは、木漏れ日をはじいた一筋の髪だった。自分のくすんだ色のものとは違うそれは、まるで蒼天にかかる太陽のように、強い力で那岐の意識に押し入ってくる。
ためらいながらも、逃げられない。
思わずじっと見入っていると、やはりさっきと同じように、千尋は気づいて振り返った。
さあもう言い逃れはさせないぞ、何々、何の用?とばかりに、きらきらとした目で、視線をずらす那岐の顔を覗き込んでいる。
しまった。なんて、面倒な――。
内心ぐったりとした那岐であったが、ため息と共に腹は決めた。
昔からこのお姫様の視線には逆らえた試しが無かったからだ。
いや、逆らいはするのだ。基本全面降伏。都合の悪い時に限り、何となく雰囲気で煙(けむ)に巻くいけ好かないどこかの従者とは違う。
本音の付き合いなんて、めんどくさい以外の何物でもないが心情だった那岐である。往々にして、きっぱりと突っぱねてはいたのだが……。
とにかく、最期までその抵抗を続けられた事は、数えるほどしかなかった。
時に暴走列車のように突っ走ってしまう千尋が相手だ。どんなに逃げようと、かわそうと、事前策を講じても、一度走り出したら止まらない。
今だって、往生際悪くそろそろと腰を浮かしかけた那岐の袖をがっしり掴んで、どんな相談でも受けて立つわよと言わんばかりに鼻息を荒くしている。
あながち比喩で終わらないところが怖いところだ。
「――はぁ……」
観念して、那岐はお縄を頂戴した。
さあいざ、と身を乗り出す千尋を制して、ぽつりと一言。
「髪」
「紙?」
「違う髪」
何それボケのつもりなの?と辛口な返答をして、那岐は呆れた目で千尋を見た。
心底真剣に反芻(はんすう)した千尋は、那岐の意地悪、と頬を膨らませている。
この顔も、久しぶりに見た。
豊葦原に帰ってきてからの千尋は、急に大人びて、張り詰めた顔か悲しげな顔が多かったから。
自覚も無く、那岐の頬がゆるく緩む。
けれど目は相変わらず真剣だったので、苦笑いのような、奇妙な表情になってしまった。
「思いっきりやったね」
「うん」
さらりと千尋が毛先に触れた。太陽の光を弾いてきらめくその金の髪は、肩にかかるかどうかと言った短さだ。以前の面影は微塵も感じられない。
「なに。今さら那岐までお説教?」
はっとして、千尋が身構えた。髪を切り落とした後の、仲間達の言動を思い出したからだ。
千尋を取り囲み、皆しみじみ「もったいない」と嘆いたものだった。
あえて名前は言わないが、そのうち何人かは姫たる千尋の軽挙を諌める方向で。
しょんぼり肩を落としたり、絶句したり、自分の力不足を嘆いたり、懇々とお説教したりなど等、ひどく千尋は絞られたのである。
もうこりごり、とげっそりやつれた千尋を思い出して、那岐は薄く笑った。それを嫌な予感と受け取った千尋は、
「いいんじゃない、って言ってたじゃない」
腕を構えて叫ぶ。それに『そういえば、そんな事も言ったか』と那岐。
「別に、そんなんじゃない。あの時は」
口にしかけて、思いとどまった。
別に、あの時は良かったのだ。帰ってくるつもりなんて無かったし、それに千尋が選んだことだ。日常の中での自然な流れだったのだから、思い煩うことなど何も無かった。
けれど、今回のこれは。
「…………」
とても普通な時では無かったのだ。最終的には千尋の決断で切り落としたとは言っても、そこに至る過程が違いすぎる。
まるで日常とはかけ離れた戦時中での出来事であり決断だった。
別に、現代で短い髪を見慣れた那岐にとって、千尋の髪型は特に忌避するものではなかった。ただ、その髪を見るたびに思い出す記憶はあったが、それは胸を突くような思いと共に訪れるもので、決して不快なものでは無かったから。
那岐にとっては『良きモノ』であった。けれど中つ国の女性の、それも高貴な身分の女性にとっては驚くほどの出来事で。
ひそひそと言葉を交わす豪族達の視線を思い出して、那岐の眉間が寄った。痛ましいものを見る目つきの女官たちを思い出して、不愉快にもなった。
幸い当の本人は能天気にしているので気づいていないようだが、そういったことに聡い那岐には折々、気にかかるものだった。責任のようなものすら感じていた。
ついと視線をそらし考え込む那岐に、やれやれと千尋は頭を掻いた。
那岐はたまに、言葉が足りない。胸に溜め込む性質なのか、本当に言いたいことを抱えて立ち往生する癖があるような気がする。
普段はその怠惰な外面にごまかされて見えないけれど、人一倍、人の思いに敏感なのだ。逆に自分の気持ちからは目をそらすのが癖づいている。その危うさが気になって仕方がない。
千尋がおせっかいを焼きすぎる所以(ゆえん)のひとつだ。
「伸ばした方が良いかな?」
空気を読んでみての発言だったが、那岐の答えはそっけないものだった。
「別に。千尋の好きにすればいいんじゃない?」
いつもの如し、である。思わず笑ってしまった。
優しさの意味を取り戻しても、那岐と千尋の関係は、変わったようで変わらない。一番近くにいる、異性の友達であり、家族で。
よっこいしょと、面倒くさそうに那岐が立ち上がった。
もうすぐ日が陰る。心なしか、吹き付ける風に冷たさが混じっている気がする。
夜気をまとい始めた草原の風をひと凪感じて、息をついた。
「帰ろうか」
手を差し出す那岐に、千尋は微笑んだ。
こういうところが、那岐は変わったと思う。前は誰も寄せ付けず、振り返ることなんてしなかった那岐が、今は数歩先を行くと必ず後ろを振り返り、千尋を見る。
疲れていないか、付いて来ているのか、傍にいるのか、確かめるように。
そのたびに千尋は微笑み、那岐の手を取る。――大丈夫、傍にいるよ、一緒だよ、と。
この日もそうして、二人は帰途に着いた。
長い影が、二人を追いかけるように地面に伸びる。
あの夕暮れの下校時のような、真っ赤な夕日の照らす中を、同じように。
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