ソラ駆ける虹

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 それからの旅は、イミル爺さんと二人だけのものになった。海を渡り、森を抜け、山を越える。その間、最初は町に入り宿を取っていたのだけれど……途中からは止めた。の透けた体を、町の人間に見られたからだ。ひどい騒動になってしまって、危うく化け物として狩られるところだったのだ。あんな思いは、もう二度としたく無い。

 だからと言って、完全に町から遠ざかるわけにもいかない。最低限、旅に必要なものを爺さんが買いに行き、その間、は町の外で待つことになった。
 おかしなことに、その間は不思議と、魔物に襲われる事は無かった。近づいて来ても、魔物達はまるで奇妙なモノを見たかのように怯え、警戒し、最後にはじりじりと後ずさって逃げてしまう。
 ありがたいことだった。だが、その反面、ひどく自分が遠いものになってしまった気がして悲しかった。

 そうしている内に、生活にも変化が現れた。
 体を襲う痛みが無くなった代わりに、眠りを必要としなくなった。気味悪がられるのが怖かったから眠ったフリをしていたのだけれど、ほどなく、爺さんにばれた。
 唇を噛んで押し黙るの頭を、爺さんは珍しく何も言わずにゆっくりと撫でた。

 食事もいらなくなった。食べても味がしないのだ。お腹も空かない。もったいないから、食べるのを止めた。その時も、爺さんは何も言わなかった。

 懐かしい砂漠の町に近づく頃には、音素の乖離は、もう体の全身に及んでいた。全身を覆う衣服を着て、布をかぶり、ベールで顔を隠す。指先など、もう完全に消えていた。透明化が顔にまで及んでいる。町に入るなんて、とんでもない話だった。こんなモノを、もう人とは呼ばない。
 顔見知りの市場のおばちゃんや、便宜を図ってくれた大商人アスターさん。世話になった人達。
 とりわけ、住まいと仕事を与えてくれた店長の顔が頭を過ぎった。

「本当にいいんじゃな?」
「……はい」

 会わずに行くと決めた。レムの塔に向かう前に、すでにお別れは済ませていた。だからもういい、と。
 本当は、この姿を見られるのが怖かったのかもしれない。住み慣れた町が、仲の良かった人達が、豹変するかもしれないという恐怖が、思慕の念を押さえつけた。
 最初はイミル爺さんの同行も断ったのだ。これから向かうザオ遺跡には、強力な魔物が潜んでいる。いつもなら屈強な傭兵を雇って行くところだが、私がこんな状態だから、それはできない。私だけなら、魔物はもう気づきもしない。だから、一人で行くと。けれど。

「好奇心、同情、乗りかかった船じゃな。……ここまで付き合ったんじゃ。最後まで見届けさせんかい」

 そう言って聞かない。
 口論の末、遺跡の入り口までなら、と言うことで話はついた。どう考えてもそれ以上は無理だ。危険すぎる。
 一歩も引かないを相手に、最初は渋っていた爺さんも、最後にはしぶしぶ了承した。



「ワシには娘がおってなぁ」

 明日にはザオ遺跡に着く夜のことだった。
 イミル爺さんは、砂漠の寒さ対策のために強い酒を飲んでいた。爺さんは酔うとすぐ娘さんの話をする。

「美人で、賢く、気立ても良い。本当にできた娘じゃった」

 いつも過去形で、だ。だから、深くたずねたりはしない。爺さんがしゃべりたいようにしゃべらせる。それが発掘隊の暗黙のルールだった。 誰もが皆、何かしら、人に言えない過去を持っている。

「妻は、子ができにくい体でな。諦めていた頃にやっとできた子じゃった。目に入れても痛くないとはこのことを言うのかと、初めて知ったよ」

 続く言葉に、は非常に驚いた。いつもなら、「小娘も見習え」とか、耳が痛い説教が続く話題だったからだ。こういう風に続くのは、初めての事だった。

「本当に大切に想っていた。……じゃがな、研究一筋で来たワシには、子供の可愛がり方なんぞ、よう分からんかった。産後の肥立ちが悪く、妻も早く死んでしもうてな。どうしようも無くなって、親戚の家に娘を預けた。なるだけ顔を出すようにはしてたんじゃが、大きな遺跡の発掘が始まって、帰れない日が続いた。そうしている内に、娘とワシは疎遠になってな」

 後はおさだまりの話じゃ、と爺さんは笑う。

「成長した娘は、自分を捨てて研究を選んだ父親を嫌っていた。嫌われた父親も、一言も話さない娘に手を焼いた。そうしている内に、どうしようもない溝ができてしまった」

 しんみりと語るイミルに、は黙って目を伏せた。……何も言えなかった。
 よくある話だと、イミルは言う。けれど良くある話だからと言って、辛くないわけでは無い。その時の痛みは、その人にしか分からない。寂しげな目をするイミルに語る言葉を、は持ち合わせていなかった。
 じゃがな、とイミルは目を細める。

「これで終りだと思うじゃろ? ……実は続きがあってな。この二人、娘の結婚を機に和解するんじゃ」

 は? と目を見開いたに、してやったり、とイミルはにんまり笑みを浮かべた。

 続く話は、こうだ。
 成長した娘は敬虔なローレライ教団員となり、同じく教団の、人の良い男と結婚する。実は父との関係をずっと後悔していた娘は、「謝りたい」と夫に告げ、夫が二人の仲を取り持った。こうして、父と娘はようやく親子らしい交流を取り戻すことになる。

「孫も生まれた。可愛い男の子でな。娘によう似た、優しい、緑の目、を、していて……」

 ふらりふらりと揺れながら、爺さんは言葉を紡ぐ。
 いつもより早いペースで飲んだせいか、すでに半分眠りの中のようだった。傾く体をそっと横たわらせ、布をかけてやる。

「ワシを見てな。にっこり、笑った。この子、は幸せになる。何の根拠もなしに、そう思った。……あの時は」

 口の中で呟かれた言葉は、もうには届いていなかった。
 眠る爺さんの体が冷えないように、弱くなった火を再び起こす。夜は長い。眠らなくなったにとって、孤独な時間がやってきた。こういう時、は懐かしい故郷の歌を口ずさんで暇を潰す。

「どうして、そっとしといてやってくれなかったんじゃ。なんで、あの子だったんじゃ……」

 見渡す限り遮るもののない砂漠の中、銀の星がちらちらとまたたき、歌を歌う。
 優しい旋律に紛れて、老人の声が弱弱しく響いた。

「……<始祖>(ユリア)よ」


 祈りは、届いたのだろうか?



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