いつかの葦原一家

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 ある日の葦原家の一コマである。

「あのさ、髪、切ろうかなって思うんだけど――」

 切り出したのは、三人家族の紅一点かつ絶賛保護対象(本人無自覚)の葦原千尋だ。
 こんがり焼けた魚の身をほぐしほぐし、明日の天気は曇りだね、とでも言わんばかりのいつもの調子で、ぽつりとつぶやいた。

「ふーん」
「そうですね、って。――千尋?」

 どうでも良さそうに返したのは那岐である。こちらは魚の骨をより分けるのがめんどくさかったのか、身のしっかりしたところだけを食べて、そのまま放置していたところだった。
 それを目ざとく見つけたは風早である。やんわり注意を促(うなが)し、めんどくさがる那岐に、こんこんとお説教をしてうっとおしがられていた時のこと。
 なかなか熱の入ったお説教ぶりだったのだが、そこはやはり「お育てした姫云々(うんぬん)」言い放つ男である。
 何気なく流した那岐とは違い、即座に千尋の発言に食いついた。

「ちょっと待ってください千尋。なんでそんな急に?」

 いつもはぽやーっと風に吹かれる柳のごとき風情なのに、この時ばかりは様子が違った。
 手にした箸をテーブルに戻し、ずずいと身を乗り出して問うたものである。

「だって、髪長いの大変だし」

 答える千尋は不満顔だ。
 洗うのも乾かすのも時間かかるし、朝なんてまとめるだけで一苦労。それ以前に、現役女子高生としてありえないほどの長さである。
 プールの授業や修学旅行のたびに、友達から言われてきたのだ。曰く、「長過ぎで大変じゃない? 切っちゃえば?」とかなんとか。

 彼ら、彼女らに悪気は無い。むしろ美しく伸ばした長い髪を褒めてくれる人がほとんどだった。
 ただ、現代における常識として、あまりに長すぎる髪は耳目を集めるものなので。

「ここまで長くなくても、いいんじゃないかって思って」

 まるで伸ばすことが普通のように思って伸ばしてきたけれど、別に切ってもかまわないと思ったのだ。
 むしろ人から変な目で見られないように、わざわざ短く見えるよう結い上げる方が変な気がして。

 いっそ切ってしまえと言い放つ、思い切りの良いお姫様がここに。

「別に。いいんじゃない?」
「でしょう?」
「那岐!」

 それをあっさり推奨したのは、これ幸いとばかりに食器を片付けた那岐である。ちなみに食べ残し豊富な魚の骨は、近所巡回中の野良猫の口の中だ。
 葦原家から魚を焼く匂いがすると、奴らは必ずやってくる。

「千尋がしたいって言うんだから、好きにさせれば? 実際、ちょっと長過ぎだし。頭も軽くなって、おせっかいもついでに直るといいんだけど」

 めんどくさいことはほとんど省略するくせに、こういう時だけは+αで余計な言葉が付いてくる。
 悪かったわね! と少しは自覚のあるお姫様はぷくっと頬を膨らませた。

「……でも、頭は軽くなるよね。髪だけで結構な重さだもの」

 休み時間に友達に見せてもらったファッション雑誌の、季節のカットモデルの写真を思い出して、千尋は夢想した。

 腰くらいまで切ったらどんなに楽だろうかとか。
 肩甲骨辺りまで切ってピンで横に流したら可愛いかな、とか。
 いっそボブくらいまで切ったらすごいイメチェン! とか、新しい自分にわくわく思いを馳せる。

 ――と、何やら視線を感じて意識を戻した。
 さっきから眉を落として考え込んでいた風早がこちらを見ている。

「だめ? 風早は反対?」
「いえ、そうではありませんが……」

 何とも歯切れが悪い。いつもはほわほわと柔らかな表情が、今はしょんぼり落ち込んでいる。
 口ではそうは言っても、快諾してくれていないのは明白だった。名残惜しそうに千尋の髪を見て、一言。

「もったいないと思いまして。こんなに綺麗な髪なのに」

 何気なくもらした一言だったが、効果は絶大だった。いや、あえてこう言わせてもらう。ある人にとっての効果は絶大だったのだ。

「え、……そうかな?」
「そうですよ」

 照れたように髪を一筋なでる千尋に、きっぱりはっきり風早は答えた。そんな風早に、はにかんで姫君。

「風早はそう言うなら、やっぱり止める」
「良かった。安心しました」

 短い髪も似合うでしょうけどね、と続ける風早に、うまいことばかり言ってと笑う千尋である。


 そんな二人を背に、那岐は縁側に出てごろんと横になった。
 何かにひどく疲れたような声で、ふぅと嘆息をひとつ。

「……よくやるよ、本当」


 葦原家にとっては、これが日常である。


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