それは、ついこの間のことだったのに。

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「ったく、何だって言うんだ……」

 走り去った千尋の後を追って、天鳥船の中を那岐は苦々しい気持ちで歩いていた。

(――あれぐらいで、何で)

 むしゃくしゃして、那岐は頭をかきむしる。
 いつに無く早足で歩く那岐の姿を目に留め声をかけてくる仲間達も幾人かいたが、構ってられないので放っておいた。
 おいこら那岐! と声を荒げる奴もいたが何のそのだ。そんなのを相手にしてるほど暇じゃない。

『何でそんなこと言うの? 那岐の馬鹿!』

 去り際の千尋の叱責が耳について離れない。
 その内容自体はいつものことだったが(千尋を怒らせるのは日常茶飯事だ)、今回はいつもと少し様子が違った。

 見開かれた目が、涙に揺れる。

 そのことにぎょっとして、二の句を告げられないでいる内に、千尋は引き絞られた矢みたいにすっ飛んで行った。
 後に残された那岐は呆然自失だ。この中途半端に上げられた右手の行き場所はどうしたらいいのか。

 いつもの事だし放っておこうかとも思ったけれど、妙に気になって仕方がない。
 不機嫌もあらわに、那岐は千尋探しに出た。

 部屋を訪ねて、夕霧に聞いて。
 それでも見つからなかったから、もしやと思って来てみたけれど。




 くるりとこちらに背を向けて、小さくなって座っている千尋の背中を見つけて、那岐はやれやれと胸を下ろした。
 堅庭の下。そこにある小さなバルコニーだった。おそらく那岐と千尋しかしらない秘密の場所。
 船内はどこにいっても人がいるから、こっそり隠れて泣こうと思ったらここが一番なのは分かるけれど、ケンカした相手しか知らない場所に隠れるってどうかと思うのだが。

 ――と言うより、見つけて欲しかったのか。

 昔から変わらない千尋の行動パターンに少し笑ってしまう。
 那岐の言葉のたいがいを苦笑で許す千尋だったが、たまにここぞという所で爆発する。そうしたらもう後は決まったものだ。今と同じように走り去る千尋を、那岐は何で僕が、と言いながら仏頂面で捜す。

 人の事は言えないか。

 結局のところ、昔から変わらないのは自分も同じだ。
 最初はそうでもなかったのに、いつの間にか刷り込まれた。

「あのさ、千尋」

 ぴりく、と小さな肩が揺れた。
 振り返ろうとしない千尋に、まだすねているのか、と頭を掻く。
 大体風早はどこに行ったのだ。こういう時、いつもどこからか嗅ぎ付けて来るくせに、今日に限っては影も形も感じさせない。
 いつもいらない程おせっかいなくせに、全く、ここ一番で役に立たない。

「急に怒られても困るんだけど」

 言うと、更に千尋がむくれたのが分かった。
 まるで怒った猫のように、ぶわっと毛が逆立ったように見える。

「栗拾い行くの断ったぐらいでさ」

 ――風早と、三人で。
 そう言って、にこにこと上機嫌だった千尋の顔が浮かぶ。

「僕がそういう面倒くさいの嫌がるの、いつものことじゃないか」

 ――めんどくさい。他の誰かを誘ったら?

 息が詰まったように目を見開いて、そしてくしゃりと顔をゆがめた千尋の顔に言葉を失った。
 そんなにひどいことを言ったつもりは無かったんだ。なのに、千尋は。

「だって」

 ぽそり、と千尋が口を開いた。

「だって、久しぶりだったんだもの」

 那岐と、風早と。三人で、何かするの。
 昔に戻ったみたいで嬉しかったのに。そう言う千尋は幼い子供のように、何かに耐えるようにぎゅっと袖をにぎりしめた。
 その小さな手を見て、那岐はようやく千尋がこんなに怒った理由が分かった気がした。
 つまるところ、千尋は恋しかったのだろう。現代で過ごした、あの時間が。

 平和で、ありきたりな。
 戦だの、二の姫だの、余計なしがらみが何も無かった、あの異世界での生活。
 それは那岐だって一緒だ。戻ってくるつもりなんて無かったのだ。ずっと、あの世界で、豊葦原でのことなんて忘れて、ただの那岐として、千尋として生きて行くつもりだったのに。

 けれど三人は帰って来てしまった。この世界に。中ツ国に。
 そして帰ってきてしまった以上、どうしてもついて回るのが氏素性だ。那岐なんかは黙っていればよほどの事が無ければとやかく言われることもないが、千尋は違う。この国を背負って立つ旧豊葦原王家の最期の姫として、やるべきことも責任もある。

 こんなことになるだろうから、止めておけと言ったのだ。
 けれど背負うと決めたのは千尋だ。その自覚があるからか、いつもは姫らしく振舞うようにしているようだったが、こうして那岐や風早の前だと、時折その仮面がはがれる。
 素直にすねて、怒り、笑う。ただの葦原千尋が戻ってくる。
 昔に比べてその感情の起伏が激しくなったような気もするが、そうすることで、千尋が気持ちのバランスを保っているように那岐には見えた。

 ――仕方がないな。

「千尋が拾ってくるなら、焼くのぐらいは付き合うよ」

 ぱっと千尋が顔を上げた。それについっとそっぽむいて、付け加えるのも忘れない。

「ついでにきのこも取って来て」

 がくりと千尋は肩を落とした。
 本当に疲れることが嫌いだよね那岐は。
 口を尖らせる千尋に、山登りなんて率先してやる人の気が知れないよ、といつものごとく、那岐は飄々としたものだ。

「今度、海に行こう? 風早と三人で」
「はいはい」
「お月見もしようね。お団子作るところから」
「そういうのなら、船のやつら全員でやったら? 千尋好きだろ、そういうの」

 大人数でわいわいやるのがさ。
 そういう那岐に、う〜んと唸った千尋だったが、すぐに首を振った。

「だめ。人が多くなると、那岐どこかに行っちゃうもの。みんなでやるのはまた別にする」

 別に、ね。
 それはご苦労様とうそぶく那岐の脳裏に浮かんだのは、仲間達に囲まれてはしゃぐ千尋の姿と、三人でやるのと仲間全員で催す、そしてどちらの時も参加するだろう風早のゆるみきった笑顔だ。
 そして悪態つきながらも千尋に引きずられて強制参加させられるだろう自分も容易に想像できた。
 その想像だけで疲れて、ああやっぱり厄介なことになった、と予測通りの事態に、思わずため息が漏れる。

「そうだ、那岐、お誕生会もやろうね。私、ケーキ作ってみる!」
「……材料ないだろ。カリガネにでも任せたほうがいいと思うけど?」

 すっかり調子を取り戻した千尋が、那岐ひどい! と叫ぶ。
 それに、はいはい、と首をすくめることで那岐は答えた。




 帰ってくるつもりなんて無かった。こうなることが分かっていたから。
 けれどそれでも。この中ツ国で、少なくとも『ここ』だけは。

 那岐にとって、そう悪くないと思える場所だったのだ。


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