アスタリスク
1
自分が他の人よりぼーっとしているという自覚はあった。特に朝方、昼過ぎなんかは寝ぼけているのと相まって、ぼんやり度3割ましだ。家族や友達から「いつか取り返しのつかないことになっても知らないよ」なんて言われたことも多々ある。
その度に笑って否定していたが、こんなところで思い知らされるとは思っていなかった。
つまりは――気づいたときには遅かった、という話だ。
「あぃたっ!!」
ふいに現れた壁に、危ない、と思う間もなく激突した。瞬間、目の前に星が飛ぶ。
くらっと来たと思ったら、同時に、鼻にジンとした痛みが押し寄せてきて。
「―う―ぉ―っ!!」
痛い。めちゃめちゃ痛い。
きっと今の衝撃でただでさえ低い鼻が少なくとも0.1mmは引っ込んだ。3週間地道にやっていた、小鼻引き上げ運動は今の一瞬で無駄になったというわけだ。
3週間なんて短いと言うなかれ。飽きっぽい私にとって3週間は途方もなく長い時間だったのに……。絶望だ。私の3週間を返せ。
「あなた、大丈夫?」
じんじんと痛む鼻と、踏みにじられた3週間の痛みに耐えかねてしゃがみこんでいると、床に影が差した。誰かがのぞきこんでいる。
声からすると若い女性。
「痛いです、すっごく」
「大変! 医務室があるけれど歩けるかしら? 鼻血は……大丈夫そうね」
運の良い事に鼻血は出ていない。
よかった。さすがにそれは年頃の乙女としてどうかと思うし。
「いや、大丈夫ですけど……。――痛い」
「大丈夫?よかったら、これ」
すっと差し出されたのは、きれいにたたまれたハンカチだった。
――なんてエレガントな!このタイミングでこんな自然にハンカチーフが出てくるなんて。
今時そうそういないぞ、こんな素敵なお姉さま。
「あ、ありがとうございます。でも大丈夫です。だいぶ収まってきましたし」
「本当に平気なの?遠慮しないで言ってちょうだいね」
「はい、どうも」
最初は確かに痛かったけど、実はそれほど強くぶつけてはいないみたいだ。
正直、痛みより驚きの方が強かった。まさかいきなり壁が現れるなんて。
……て、あれ、壁?……、え?
「……かべ?」
「どうかしたの?やっぱりまだ痛むんじゃ」
「いや、どうかしたかってどうかしてるんですけど」
ハンカチ伝いに声をかけてくれた女の人(ちなみにかなりの美人だ)を見て驚いた。……なんだろう、この一風変わった制服のような衣装は?
ついでに壁を見てハテナ、天上を見て眉をしかめ、床を見る段になって黙り、銀光りする通路(だと思う)にぱちぱち目をしばたいた。
……なんか、とてつもなく嫌な予感がするのだが――。
「……えっと、すみません。ここはどこでしょう」
「艦長室の近くよ」
いや、だからどこですかそれ。
軽い引きつり笑いを浮かべながら再度辺りを見回す。――うん、壁だ。すがすがしいくらい、見たこと無いつや消しの金属でできた通路。
ほほに浮かんだ汗がつうっと滑り落ちた。明らかに普段の自分の行動範囲にないぞ。こんな場所。
喉の奥がゴクリと鳴った。
それほど広くはない通路は、足元から天井まで不思議な光沢を持つ金属でできていた。窓は無い。一定の間隔で設けられている扉は、ドアノブも無ければふすまみたいに手を引っ掛けるところも無かった。
どうやって開けるんだろう、あれ。
「だめじゃない。一般の人は居住区からでないように通達してあったでしょう?」
「す、すみません」
顔を引きつらせながらあたりを見回していたら、良く分からん理由でしかられた。
美人さんは腰に手を当てて、とがめるように私を見ている。
何がだめなのかはよく分からなかったが取り合えず素直に謝っておく。こういう時はとりあえず謝っといたほうが良いと感覚的に知っていた。母親のヒステリーも学校の先生のお小言も、通行人のおっちゃんの因縁付けも大抵この方法でスルーしてきたんだ。この法則にだけは自信がある。
この黄金法則は見知らぬこの場所でも通用したようだ。優しい美人さんは内緒にしとくわね、と小さく笑った。
「この艦、広さのわりに人が足りないの。下手なところに迷い込んだら遭難しちゃうわよ」
「は、はぁ」
「居住区はこっち。ID登録は済んだ? まだ終わってないならパジルール少尉が手配してくれているはずだからそちらに……」
「いや、その前にちょっとお聞きしたいことが!」
美人の話をさえぎるのは小市民根性満ち溢れる私にはちょっと勇気がいったが、事情が事情。ノミの心臓をおおいに奮い立たせた。
必死の形相の私に、美人さんは首をかしげている。
「あら、何かしら?」
「あのですね……」
こんな状況で聞くことと言ったらまずこれでしょう。――ここはどこ? 私は誰? これだ。
まあ2つ目は特に必要が無いから良いけど、とりあえず、マジでここはどこですか?
「日本ですか? 海外ですか? 実はやっぱり秘密基地?」
「秘密基地?」
「いやすみません違います」
いかん、冷静ぶっててもぜんぜん落ち着いてないや。言ってることが意味不明。落ち着けわたし。
「やっぱり具合が悪いんじゃないの?」
「いえ、悪いのは頭のほうですから平気です」
頭が悪いのはデフォルトなんで問題ありません。
悪いなりにこれまでの人生苦楽を共にして来た脳みそを必死に動かして私は考えた。とりあえず今いる状況を整理してみよう。
鈍い痛みと共に気がつくと壁。見知らぬ場所。突然現れた謎の美女。
そして降りかかる恐ろしい魔の手。
ひらめく銀線、飛び散る血飛沫。
犯人はこの中にいる!!
――いかん。ぜんぜん冷静になってない。
「あの、実は私ま「!」
――いごみたいです。
今の私の状態を表す一番的確な言葉は、突然響いた声にかき消された。
聞き覚えの無い声だ。けど私の名前を知っている。
――誰だ?
相手を確認しようとする間もなく、肩をつかまれ、強制的に振り返らされた。
「、どこに行ってたんだ。いきなりいなくなるから探したぞ」
「――は?」
振り向いて、絶句した。なにこの生き物!?
そこにはやたらと顔の良い少年がいた。
いや顔。まず顔。本当顔。
びっくりするぐらい顔良い。てか声も良い。誰あんたとか思う前に――うわ何この美形目の保養――とか思うしかないぐらい、ものすごい眼福・ガン見・大満足なご尊顔をされてらっしゃる。
走ってきたのだろうか。少し息が上がっている。それもまた色艶があって良し。と言うか、近い! 顔近いよ、少年!
「よかった。無事みたいだな」
びっくりしすぎて言葉も無かったが、彼の瞳には健康体だと映ったのだろう。途端にほっとしたように顔を緩め(その笑顔は非常に心臓に悪かった)、少年は私の肩から手を離した。
少し距離ができたおかげで、ようやく彼の全体像が見れた。すらりとして、どこか隙が無い立ち姿が印象的だ。何よりともかく……美形。だってそれ以外に表し様が無い。
近づいた時も目ん玉飛び出るぐらい綺麗な顔だと思ったけれど、離れて落ち着いて見ても、やっぱり美形は美形だった。透けるように白くきめ細かい肌に、黒い目がよく映えている。耳より少し長いくらいの長さの髪は、この年頃の男の子にしてはずいぶん変わった髪形だと思っう。けど、どこか中性的な顔立ちのためかそれほどおかしいとは思わない。
……つーか頼む。それ以上よらんでくれ。せっかく落ち着いてきた頭がドキドキし過ぎて爆発するから!
胸を押さえて絶句していると、さっき出会ったばかりの女性に少年が頭を下げていた。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
がっしりと腕を掴んだまま、少年は女性に礼を言う。女性は驚いたように目を見張った。
「まあ、お友達?」
「いえ初対面で「はい。幼馴染です」――へ?」
耳を疑うとはこんなことを言うんだろう。首をかしげてたずねる美人さんに間髪いれず答えた彼の言葉は、私の耳を右から左にさようなら〜とすり抜けて行った。
……は? いやあのすんませんちょっと待って下さい。こんな顔のいい友達、過去にも今にも未来にも、私は作った覚えないし、できる予定もないんですけど――。
「あの、ちょっ「すみません、彼女は方向音痴で、よく道を間違えるみたいで」
待ったをかける私の意見はさっぱり無視して、少年はまるで保護者のように私と女性の間に進み出た。
トンデモな事体にびっくり仰天で少年を伺うと、思いっきり腕を引き寄せられた。妙に力が入っている。
――余計な事は言うなと言わんばかりだ。
「なかなか帰って来ないので心配していたんです。連れて来て下さってありがとうございます」
綺麗な顔に、これまた綺麗な笑顔を浮かべて、少年は丁寧に頭を下げた。
常々思っていたことだが、顔が良いというのは本当に得なことだ。それだけで大抵の人は相手に好印象を持つ。その上、この少年はものすごく礼儀正しい。動作もきびきびとしていて、凛とした美しさがある。
平たく言えば、全身から『優等生』『大人に好かれるよねこういう子』的な雰囲気をかもし出しているのだ。
――こういうのに、年上の女の人は弱いんだよね……。
案の定、たったこれだけで、少年は美人さんからの信頼を勝ち取ったらしい。目に見えて、美人さんの警戒心が薄れて行くのが分かった。
「よかった。ひとりじゃないなら安心ね」
ほっとしたように美人さんは笑う。何かもうすでに私の事は引き渡したってムードである。和やかな二人に反して、正直私は困り果てていた。
すいません。私この人知らないんですけどー。
「道は分かる?」
「帰り道なら。来たとおりに引き返すだけですから」
「もう迷わないようにね」
「お手数おかけしました」
気にしないでと笑う女性に、男の子は一礼して私の腕を取った。どうにもこうにも、反抗できない力加減だ。とっさのことで、言葉さえも出なかった。
あっという間に、彼に引きずられて、私は連れ去られてしまった。