アスタリスク

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  4  

 甘い香りが鼻腔をくすぐる。どこか懐かしいその香りは、ふぬけたの意識を一気に覚醒させた。

(おなか…すいた……)

 空腹に耐え切れず、ぼんやりとまぶたを開ける。
 見慣れない天井が見えた。どうやら眠っていたらしい。寝起き特有の倦怠感が体を包んだ。頭がはたらかない。
 ただ無性に、ぐうと鳴る空腹感が美和を現実に引き止めていた。

「……そうそう、薬の残数のリストアップは終わりましたか?」

 ふいに話し声が聞こえた。
 男の声だ。問いかけるような声が、穏やかに響く。

「あの程度、とっくに終わってます。それよりも報告書の方、ちゃんと終わらせたんですか」

 それに答える声は、やけに冷たい。とういか、そっけない。生意気無愛想ここに極まる、てな感じだ。けれど慣れているのか最初の声は動じない。笑(えみ)さえ含んだ声で答える。

「まあ、それはおいおいしましょう。まだ時間がありますし、ね?」
「……いいですけどね。別に」

 空腹のせいか、頭がくらくらする。足りないのは糖分だ。くたっと力の入らない体が全力で栄養補給を訴えていた。
 ああ、だれか。私に神のお恵みを。

「そうそう。ホットミルクが残っているんです。もったいないから飲んでくれませんか?」

 甘い香りの原因に行き着いて、の体は勝手に動いた。
 ――ホットミルク!!天は私を見放さなかった。

「――、いただきます!」

 考えるよりも先に口のほうが動いていた。




 会話を聞いて想像していた通り、そこにいたのは2人の男性だった。
 ちょっと驚きながらもこちらを見る30代後半ぐらいの男の人は、声の通り穏やかそうな人で、起き上がったを見て安心させるようににっこりと笑った。
 もう一人は17,8ぐらいの少年で、やけに冷めた目つきでを一瞥し……まるで興味がうせたといわんばかりにそっぽむいた。

 ホットミルクにつられてベットから這い出したは、直面した事態にパニックになっていた。そりゃあもうこれ異常ないほど焦っていた。その心中を言葉で表すと「やべぇ、マジで、どうしよう」だったのだが、そこはそれ。一応高等教育までは進んだ身だ。意地も手伝ってか何とか平静を装って、必死に引きつり笑いを浮かべてみた。

「ハ……『HOW do you do?』」

 目の前の二人は、どう少なく見積もっても外国人にしか見えなかったのだ――。


 30代後半の人は薄茶色の髪にこれまた薄い緑の瞳。少年のほうは見たことも無いような見事な乳白色の髪にアイスブルーの瞳だ。黒目黒髪の日本人に囲まれて、のほほん島国生活をしてきたがびびるのもムリは無い。てか普通、誰だってびびるだろう。言葉が通じなさそうな外人さん2人に凝視されたら。

(は、発音おかしかったか――?)

 激しい焦燥がを襲った。ごくりと喉を鳴らすを見る優しそうな男の瞳は、不思議なモノを見る色に満ち満ちている。
 この反応、どう見ても通じてるとは思えない。一向に返事が無いことに冷や汗が伝う。

 ――いや、初対面でお元気ですか、は無いだろう自分。最初の挨拶は始めまして、だ。きっと驚いて返事が無いだけだろう。きっとそう、そうに決まってる。でも英語ではじめましてって何て言うんだった?

 焦りで言葉が出ない。ついでに頭も働かない。
 それでもなんとかコミュニケーションをとろうとおたおたしていると、涼やかな声が響いた。――流暢な、日本語で。

「あんた、馬鹿?」
「は?」
「先生、患者が目を覚ましました」

 目覚めた瞬間馬鹿呼ばわりされて呆気に取られたを尻目に、少年は淡々と告げる。
 ちょっと待て。馬鹿とはなんだ馬鹿とは。初対面の人間にそれは無いだろう!? とういか、その髪と目の色で日本語か? ――いや、待て。そういえばさっきから日本語で話してたなこの二人。実は日系何世とか、そういう落ちなのだろうか。
 一瞬でそんなことを考えが頭を駆け巡る。そんなに、先生と呼ばれた男性は穏やかに微笑んだ。

「良かった、目が覚めたんですね。具合はいかかですか?どこか痛むところは?」
「え、いや、特には。ものすごく眠くて、おなかは減ってますけど」

 口にすると、いっそう空腹感が増した。ひもじそうにお腹をさする少女に、男性の笑みがいっそう濃くなる。

「そういえば、飲みたいと言ってましたね。あまりもので宜しければどうしょう?」
「いただきます!」

 視線でホットミルクを示され、は即答した。
 あきれたように見る少年の目も気にしない。今の最重要課題は、このはらぺこをどうするか、なんだから。
 ホットミルクで暖められたカップを、ほくほく顔では受け取った。――美味しい。隠し味に蜂蜜が入っているらしい。優しい甘さが冷えた体をほっと温めてくれる。

「なかなか目を覚まされないから心配してたんですよ。どこか打ち所が悪かったんじゃないかって」

 ふうふう言いながらホットミルクを飲むに、男は安心しました、と笑った。手元には……カルテだろうか。ペンをさらさらと滑らせ、何か書き込んでいる。

「見たところ外傷もなく、大事無いようですから、それを飲んだら部屋に帰っていただいて結構ですよ。一応、プラントに帰ったら病院で検査を受けて下さい。頭の怪我は馬鹿にできませんから」
「……プラント?」

 何それ。
 なにやら聞きなれない単語が聞こえた気がした。首をかしげるに男は「説明がまだでしたね」と自分の失態を恥じた。

「ここは補給艦オプティマットの医務室です。先の作戦中負傷したあなたは、ヴェザリウスからこちらの艦に移されました。ヴェザリウスは引き続き任務に当たるとのことで、治療もままならないと言うことでしたし……。この艦は補給終了後プラントに戻る予定でしたのでちょうど良かったんです。あと2日ほどでプラントにつきますからそれまでは安静にしていてください」

 にっこり笑顔に懇切丁寧な状況説明だったが、そのほとんどが右から左に通り抜けていった。……補給艦? 作戦? いったい何のことだ。

「あの、意味が分からないんですが……何の話ですか?」
「? あなたが気を失ってからのことですよ。作戦行動中に頭を打ったのでしょう?」
「作戦…行動中?」

 何のことだ。
 心底理解できないといった様子で頭をひねるの姿に、戸惑ったように男の笑顔が消えた。困惑気味にカルテに目を落とす。

「あなたは、・ディックス情報実務官ですよね?」
「いえ……ですけど」
「ザフト情報部特別任務実働部隊所属?」
「ザ、フト? 何ですか、それ」

 はてなと首をかしげるに、沈黙が降りた。
 ペンを持ったまま固まった先生も沈黙。白髪の少年もちらりとを一瞥し、沈黙。何となくつられてもだんまり。
 時間が経つうちに少しづつ、互いの表情にかげりが表れ始める。は困惑で。男達は想定外の事態から。

「……記憶障害、か」

 静かな部屋にぽつりと落ちた少年の言葉が、ひどく印象的だった。

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