アスタリスク
25
「帰りなよ」
そう言って微笑む彼女に言葉も無かった。
「帰る場所なんて」
暗い思考の渦に一瞬で沈む。
――冷たい目で周りを取り囲む軍人達。人気の無い家。両親と撮った写真。それを飾った、割れた写真立て。叩きつけられた真実。僕は。
『……そうだよ。君の本当の名前はね、キラ・ 』
帰れる場所なんて、僕には、もう――。
言葉を詰まらせるキラに、は表情を曇らせた。迷うように眉をよせ、視線を落とす。
少しして、意を決したように口を開き、
「帰れないの?」
「――っ!」
突き刺すような真っ直ぐな言葉に、思わず息を呑んだ。
「それとも……帰りたくない?」
「違う! でも、……っ、帰れない……」
しぼり出した言葉は、思っていた以上に震えていた。
これ以上に何か言ったら、堪(こら)えてきた何かが溢れそうな。そんな気がして――。
言葉に出来ず、拳を握り締めてやり過ごす。
ただ溢れそうな激情をなだめるのに必死で。
「……そっか」
――だからだろうか。
ぽつりとこぼされた言葉は、奇妙なほどキラの心のふいを突いた。
あまりにも小さな声で囁かれた『それ』は、最初、キラにはただの吐息のように聞こえた。
けれどその言葉が……押し付けられるわけでも、同情されるわけでも無く、ただそこにある感情をただ形にしただけの言葉が、ひどく、胸に響いて。
「そっか……。――つらいね」
我慢ができなかった。
夕暮れの中、見知らぬ男に声をかけられたあの日から。
押し殺してきた感情が堰を切ったように流れ出してきた。
信じては駄目だ。希望を持っては駄目だ。
弱みを見せたら付け込まれる。助けは来ない。助けてくれる人なんていない。全ては嘘だったのだ。僕は、一人だ。――最初から。
「え? ちょ……、キラ君?」
カランと冷たいものが手から滑り落ちるのを感じた。
――帰されるのが怖くて。
真実に向き合うのが怖くて、保護された部屋から逃げ出した。刃物で人を脅すなんて、そんなことまでして。
「……っ、」
けれど、ここを出てどこへ行けばいい? 映像で見せられたヘリオポリスの家は、もぬけの殻になっていた。あわただしく運び出された日用品。置き去りにされた家族の写真。灯りの灯らない家。助けの来ない日々。
それら全てが、キラを攫って来た彼らの言葉を正しいものだと告げていた。頭では分かっていた。それなのに、まだ、信じていたくて――。
惑う自分に『アレは何かの間違いだ』と思い込ませて。
目を背けてきた。自分を利用しようとする奴らに付け込まれない様に。感情を殺して。隠して。
「ちょ、ちょ、あの……。え? ちょ、これ、どうしたら!」
それでも、目をそらし続けるのはつらくて。苦しくて。
目の前の彼女が、オロオロと身を揺らすのも分かった。心配したように様子をうかがい、覗き込む気配も。
けれどどうにも止められず、顔を覆って小さく座りこんだ。
胸があつい。
「あの……、ねぇ」
同じように、座りこむ気配を感じた。落ちたナイフに見向きもせず、彼女は取り乱した自分をただひたすら気遣っているようだった。
――変な人だ。脅されたのに。
無理矢理、連れまわされたのに。そんなこと気にもした様子も無く「大丈夫?」だの「どこか痛いの?」だの聞いてくる。
「あー、あー、あー……」
言葉にならない声を上げ、彼女は立ったり座ったりと落ち着かない。
それを何度か繰り返して、ようやく、観念したかのようにそっと手を伸ばした。
「……泣かないで?」
震える肩に手が触れた。
『泣くなよ、キラ』
ふいに、懐かしい声が記憶の底から蘇った。あたたかい、思いと共に。
肩に乗せられた手のひら。その熱を感じた時、遠い記憶にある幼馴染の困ったような顔が浮かんだ。つらい時、悲しい時、苦しいとき。
泣き出したキラを彼はいつも慰めてくれた。
――そうだ。ぼくは、ただ――。
何かが頬を滑るのを感じた。頭が、顔が、体が、あつくてあつくてたまらない。
「キラ君?――ぅ、え……?ちょっと待って本気で待って!本気と書いてマジ待って、キラ君!!!」
すぐ隣で叫んでいるはずの彼女の声がひどく遠くに聞こえる。
朦朧とする意識の中で、ただ、肩を支える熱だけが。
ひどく印象に残っていた。