アスタリスク

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「帰りなよ」

 そう言って微笑む彼女に言葉も無かった。

「帰る場所なんて」

 暗い思考の渦に一瞬で沈む。
 ――冷たい目で周りを取り囲む軍人達。人気の無い家。両親と撮った写真。それを飾った、割れた写真立て。叩きつけられた真実。僕は。

『……そうだよ。君の本当の名前はね、キラ・    』

 帰れる場所なんて、僕には、もう――。



 言葉を詰まらせるキラに、は表情を曇らせた。迷うように眉をよせ、視線を落とす。 少しして、意を決したように口を開き、

「帰れないの?」
「――っ!」

 突き刺すような真っ直ぐな言葉に、思わず息を呑んだ。

「それとも……帰りたくない?」
「違う! でも、……っ、帰れない……」

 しぼり出した言葉は、思っていた以上に震えていた。
 これ以上に何か言ったら、堪(こら)えてきた何かが溢れそうな。そんな気がして――。
 言葉に出来ず、拳を握り締めてやり過ごす。

 ただ溢れそうな激情をなだめるのに必死で。

「……そっか」

 ――だからだろうか。

 ぽつりとこぼされた言葉は、奇妙なほどキラの心のふいを突いた。
 あまりにも小さな声で囁かれた『それ』は、最初、キラにはただの吐息のように聞こえた。
 けれどその言葉が……押し付けられるわけでも、同情されるわけでも無く、ただそこにある感情をただ形にしただけの言葉が、ひどく、胸に響いて。

「そっか……。――つらいね」

 我慢ができなかった。
 
 夕暮れの中、見知らぬ男に声をかけられたあの日から。
 押し殺してきた感情が堰を切ったように流れ出してきた。
 信じては駄目だ。希望を持っては駄目だ。
 弱みを見せたら付け込まれる。助けは来ない。助けてくれる人なんていない。全ては嘘だったのだ。僕は、一人だ。――最初から。

「え? ちょ……、キラ君?」

 カランと冷たいものが手から滑り落ちるのを感じた。

 ――帰されるのが怖くて。

 真実に向き合うのが怖くて、保護された部屋から逃げ出した。刃物で人を脅すなんて、そんなことまでして。

「……っ、」

 けれど、ここを出てどこへ行けばいい? 映像で見せられたヘリオポリスの家は、もぬけの殻になっていた。あわただしく運び出された日用品。置き去りにされた家族の写真。灯りの灯らない家。助けの来ない日々。
 それら全てが、キラを攫って来た彼らの言葉を正しいものだと告げていた。頭では分かっていた。それなのに、まだ、信じていたくて――。
 惑う自分に『アレは何かの間違いだ』と思い込ませて。
 目を背けてきた。自分を利用しようとする奴らに付け込まれない様に。感情を殺して。隠して。

「ちょ、ちょ、あの……。え? ちょ、これ、どうしたら!」

 それでも、目をそらし続けるのはつらくて。苦しくて。
 目の前の彼女が、オロオロと身を揺らすのも分かった。心配したように様子をうかがい、覗き込む気配も。
 けれどどうにも止められず、顔を覆って小さく座りこんだ。

 胸があつい。

「あの……、ねぇ」

 同じように、座りこむ気配を感じた。落ちたナイフに見向きもせず、彼女は取り乱した自分をただひたすら気遣っているようだった。

 ――変な人だ。脅されたのに。

 無理矢理、連れまわされたのに。そんなこと気にもした様子も無く「大丈夫?」だの「どこか痛いの?」だの聞いてくる。

「あー、あー、あー……」

 言葉にならない声を上げ、彼女は立ったり座ったりと落ち着かない。
 それを何度か繰り返して、ようやく、観念したかのようにそっと手を伸ばした。

「……泣かないで?」

 震える肩に手が触れた。

『泣くなよ、キラ』

 ふいに、懐かしい声が記憶の底から蘇った。あたたかい、思いと共に。
 肩に乗せられた手のひら。その熱を感じた時、遠い記憶にある幼馴染の困ったような顔が浮かんだ。つらい時、悲しい時、苦しいとき。
 泣き出したキラを彼はいつも慰めてくれた。

 ――そうだ。ぼくは、ただ――。

 何かが頬を滑るのを感じた。頭が、顔が、体が、あつくてあつくてたまらない。

「キラ君?――ぅ、え……?ちょっと待って本気で待って!本気と書いてマジ待って、キラ君!!!」

 すぐ隣で叫んでいるはずの彼女の声がひどく遠くに聞こえる。  朦朧とする意識の中で、ただ、肩を支える熱だけが。


 ひどく印象に残っていた。

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