ソラ駆ける虹
-8-
ぱたん、と扉の閉まる音がやけに大きく響いた。
ともすれば思考の淵に落ちそうなを唯一つなぎとめ、またどん底へと突き落とそうとしているのは、左腕に添えられた彼の手。
正確にはその手の主だった。
その人に促され、部屋に二つあるベットの片方に腰掛ける。
沈み込みそうになる体を支えて、気持ちを落ち着けるために、大きく息を吸った。
つかの間、瞳を伏せる。
そして顔を上げた先には、全てを覚悟したような緑の瞳があった。
「こうして顔を合わせるのは初めてだね。手紙の、イオン君」
向かいの彼ははっと目を見張り、そして。
「……気づいて……いたんですね」
泣きそうに目を伏せる。
「信じたくは無かったんだけどね」
同じように笑うのほほに、ひとすじ涙が伝って、落ちた。
導師イオンは恩人だった。
突然このオールドラントと呼ばれる世界に落とされたにとって、最初は訳が分からないことの連続で、発見された当初は、むしろ不審人物として殺されそうな時だってあった。
そんな時、第一発見者であり保護を申し出てくれたイオンは、まぎれもなく命の恩人だった。
その後も、不慣れなミワに世界のあり方や預言(スコア)の存在を教え、ついでですからと遠慮するミワに文字を教えてくれた。
年下でありながらその聡明な人柄は尊敬に値するもので、向こうも風変わりなミワを喜び、好意的に接してくれていて、二人は友好な関係を築いていたのだ。
色々事情があって神殿にはいられなくなったが、が居(きょ)をケセドニアに移してからも頻繁に連絡を取り合う仲だったのだが。
その全てを過去形で話さなければならない事実に、涙が止まらなかった。
一通りの説明を受け、は大きく息を吐いた。
彼のこと。元いたイオンのこと。その、死――。
なぜそんなことに至ったのかの経緯を含めて話を聞く内に、は自分の許容範囲を超える情報が頭に詰め込まれたのを知った。
頭が痛かった。けれど、それ以上に心が痛かった。
彼がそこまで追い詰められていたことに、どうして自分は気づけなかったのか。
苦い後悔が胸にこみ上げる。
体の具合が悪いことは聞いていたのだ。見舞いに行きたいと言ったこともあったが、一人が落ち着くからと言われたら引き下がるしかなかった。
イオンは、とても親しくしてくれていたけれど、どこか一線引いたところがあった。その壁を越えるには、まだ自分とイオンとの距離は遠くて。不用意に踏み込めば、彼の心を傷つけてしまうような気がした。
だからゆっくりその距離を縮めていこうかと思った矢先だったのだ。手紙の先の人が、自分の知るイオンでは無いかもしれない気づき始めたのが。
手紙の主に疑問を持ったことをきっかけに、ある程度の覚悟も決めた。
イオンそっくりの誰か――今ならシンクと知っているが――とも会ったことがあったから、身代わりが。……導師じゃない導師がいることにも気づいていた。
それを確かめようと、一度、ダアトを訪れた事もあったが、適当な理由をつけて会ってはもらえず。
けれど導師イオンが人前で演説をしたとか何とか、そういう話は耳にしていたから、それらがもたらす未来を想像したことはあった。だから、ある程度予想はしていたのだ。
――自分の知るイオンは、もういないのかもしれない。
いつもどこかで、頭の中にその一言があった。
予想はしていた。けれど、身近な人の死は、平和な世界に生きてきたにとって、いつまでもたっても慣れるものではない。
その人が、自分に近(ちかし)い人であればなおさら。
ぐっと息を詰め、色々な物思いを整理する。
大きく息を吸い、吐く。
それを何度か繰り返す内に、少しずついつもの自分が戻ってきた。まだ手は震えているけれど、なんとか大丈夫だ。
はぎゅっと拳をにぎりしめた。
そうして先ほどから黙って待ってくれている相手に視線を戻し、は導師の様子がおかしいことに気がついた。
呼吸の途中に、風を切るような音が混じっている。それ以上に顔色が悪すぎる。
「ねえ、どうしたの? 具合が悪そうだけど……」
いえ、と答える導師に、は食い下がった。
とても万全の状態には見えない。
数度問い詰め、埒が明かないとが腰を浮かした時、ようやく根負けした導師が口を開いた。
「先ほど術を解いた時に少し……。すみません」
謝る導師に手を貸して、ベットに寝かしつける。
青い顔をしてぐったり横たわる導師の視線が、を捕らえた。
「、あなたに術をかけたのは誰ですか?」
「術?」
何のことだろう? は首をかしげた。
「両の手、足。全身に施された文様のことです。動きを奪い、意識を奪うもの。……これは、ローレライ教団導師にしか扱えない術です。それを、なぜあなたが――?」
両の手、足、のところで、は意識を失う直前に一緒にいた少年のことを思い出した。
そのことを告げると導師は沈痛な面持ちで眉を寄せ、そうですか、と呟き静かに瞳を伏せた。
そういえば、彼はどうしただろうか――?
前に逃がしてくれたことも、傷の手当のことも、満足に礼を言う前に別れてしまった。
彼に関しては、こんなことばかりだ。
意識を失う前に見えた緑の瞳が、不思議なほど鮮明に、の脳裏によぎって消えた。