ソラ駆ける虹
-11-
幸せになりたいだなんて願わない。だから、どうか。
白く七色に間延びしていく落とし穴はどんなに手を伸ばしても掴むところが見つけられない。
そんな中を、一人落ちていく彼の姿が鮮明に浮かぶ。
一人。たった一人で、遠く、深く、お、ち、て、い、く。
『――シンク!』
叫んだ声は彼に届かず、伸ばした手も空(くう)を掴む。
ゆらゆら揺れる視界の中で、確かなものは何もない。現実なのか、夢なのか。
それすらも分からないまま、それでもと力の限り手を伸ばす。
何かを言った気がした。何かを聞いた気がした。
でも、それは形にならなくて――。
まるで一切を拒絶するかのように、ゆっくりと……彼の瞳が閉じられた。
跳ねるように目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。
上体を起こし、眠りの残滓(ざんし)を打ち払うように頭を振る。
一つ深呼吸して、軽く髪をかき上げた。その右腕には、あざのあとはもう無い。
あれから一月ほど時が経った。
外郭大地は無事に降下し、世界はあるべき姿を取り戻した。
それら一連の出来事に伴い、世界では多少の変化があった。
分かりやすいのは地形。国と国との関係。
最近だと、ローレライ教団の預言についての態度も変わった。
預言を詠んでくれなくなった、と世界の大多数の人たちの不満は募り、その対応、変化に、どの国も大慌てだ。
大なり小なり世界は変わった。けれど、このケセドニア付近は先に降下していた影響もあってか、あまり変わり無い。
地形の変化のせいで一時麻痺していた流通拠点としての都市機能も、最近になってようやく回復してきた。それが、もっとも大きく、嬉しい変化ぐらいで――。
日に日に活気が出てくる町は、見ていてとても気持ちの良いものだった。
物資も増え、街には人々の笑顔が戻り始めている。
けれど、それに反比例するようにの心はふさいでいた。
「おはようございます、店長さん」
顔を洗って台所に向かうと、現在のの保護者兼雇い主である店長がにっこり笑顔で振り向いた。
食卓には、すでに朝食の用意が整えられている。
また出遅れたと反省していると、店長が壁に欠けてあったタオルで手を拭いて。
「おはよう、さん。良く眠れましたか?」
「はい、もうばっち「嘘はいけませんね」
「……すいません」
素直にうなだれると、店長がしょうがないですね、としわの刻まれた顔で苦笑した。
この笑顔に弱い。
ますます身を小さくして謝ると、頭の上に大きな手が乗った。
「ごはんにしましょう」
泣きそうになるのをこらえて、は黙ってうなづいた。
店長さんお手製の、質素ながら鮮度にはこだわった食事を終えて。
二人は食堂で静かにお茶を飲んでいた。ミルクたっぷりの甘いお茶。この地方独特の、香辛料の入った飲み物だ。砂漠の暑さで削られる体力をうまくフォローしてくれる。
そのお茶の香りが辺りには漂い、カップからゆらゆら上がる湯気を二人は静かに見つめている。
――遠くで馬のいななきが聞こえた。
それを合図にでもしたかのように、店長がぽつりとつぶやく。
「何を悩んでいるんですか、さん」
ぐっ、と喉をつかまれたような気がした。
顔を上げると、いつもと同じ笑顔の店長がこちらを見ている。
「いけませんね。年を取ると詮索好きになってしまって」
苦笑して店長は手にしたカップをテーブルに置く。
「悩んでなんて」
「いませんか? 本当に?」
「……」
おっとり聞かれて、言葉に詰まった。
――分からないのだ。悩んでいるのか、そうでないのか。
悩んでいるのかと言われて、そうだ、とは言えない。だってあれはもう『終わった』ことだ。
置いていかれた。悩む間もなく、物事の全ては終わってしまったのだ。
彼の死によって。
だから悩んでいるのかと言われたら、違う気がする。ただ、忘れられないだけで――。
「忘れられない人がいるんです。私はその人を、よく知らなかった。でも、忘れられない。ただ、それだけで」
目の前に置かれたカップに手を伸ばす。
そろそろと口に含んだお茶はすっかり冷めてしまっていた。
それ以上何も言わないに店長はただ一言、そうですか……、とだけ言って。
静かに、静かに。
ただ差し込む朝の光だけを見つめていた。