ソラ駆ける虹

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  15  

 まるで体が動かなかった。
 ただ今ある現実が信じられなくて――違う。信じたいのに、もしそれが嘘だった時が怖くて――弱い心が、自分を守るために理解を拒否した。

 ぐらぐらと世界が揺れる。

 振り返った緑の瞳が、一瞬見開かれた。けれどそれも束の間で、すぐさま警戒するように細まった。
 ああ、今日は仮面をしてないんだ――。
 そんな些細なことが、からっぽな頭につよく響いた。

「生き、て」

 のどがカラカラに渇いていた。
 呼気(こき)と共に吐き出された言葉は、音になる前に溶けて消えた。
 声を出すことすら怖かった。
 少しでも動けば、何か大切なものが消えてしまう。そんな気がして、指一本動かせずにいた。

「――何で、それを?」

 眉を寄せる彼の声が耳に響く。

 ――きえない。

 その事実に勇気付けられるように、少しだけ体を震わせる。

「……ああ、導師から聞いたのか。どおりで」

 幽霊にでも合ったような顔をしている。
 そう言って、彼は――シンクは、薄く笑った。
 あざけるようなその口調も、言葉も。動いて話す彼は、ひどく懐かしく、そして悲しかった。どこか寂しげな瞳も、記憶の中にある彼の姿そのままで。

「――っ」

 知らず、体が動いていた。誰もいない天幕の中を、まろぶように彼へと向かう。
 止められなかった。まるで磁石のような強い力で、まっすぐに彼へと吸い寄せられていた。
 気持ちがはやって、どうしようにも無かった。

 けれどその瞬間だけは、さすがに少しためらってしまう。
 夢の続きのように、触れたらまた溶けて消えてしまうような、そんな気がして。

 止まったのは一瞬。けれど、それ以上は耐えられなかった。

 だって、君が、ここにいる。

「なっ!?」

 ぎょっと目をむく彼にかまうこと無く、手を伸ばす。
 武術で鍛えている割には、手指は細くしなやかだった。それに反して、意外と肩はがっちりしている。緑の髪にさらりと指を通り、あたたかな頬に手のひらを添えようと、

「っ」

 触れる前に、その手は別の力で遠ざけられた。
 ひやりとした指先が、外の雨を思い出させた。そういえば、今日はやけに冷える――。

「……何がしたいの、あんたは」

 どうにかして暖められないだろうかと手のひらで包み熱を分け与えていると、不機嫌な瞳がこちらを見据えていた。
 いらだちと不満。
 至近距離にあるそれらは、隠すこと無くダイレクトに、その感情をに伝えて来た。見つめる瞳は冷たい。けれど、包み込む手のひらを、彼は自分から振り解くことはしなかった。
 厭(いと)う。というよりは、戸惑っているように感じられた。ぎゅっと身を堅くして、突然与えられたぬくもりを前に口をつむぐ。

 ――いつか、どこかで。

 見たことがあったような気がして、おぼろげな記憶を手繰り寄せている。と、舌打ちと共に顔をそらされた。頬が、少し赤いように見えるのは気のせいだろうか。……もしかして、照れているのか?
 いつもの言動に似合わないその様子がおかしくて、少し笑ってしまう。
 その段になってようやく、その事実がの胸にすとんと落ちた。

「ちょっと!」

 実感したとたんに、がくりと膝が落ちた。
 つられて倒れそうになる体を、すんでの所で、目の前にいた彼に支えられる。
 体に力が入らない。けれどそんな中でも、『この手だけは』と震える指先に力の限りを集中させる。
 頬につぅっと、雫が流れた。

「君が、生きている」

 戸惑うような瞳と合った。
 どんな表情を作っていいか分からないように、シンクはくしゃりと髪をかき上げる。
 そんな何でもない姿すらも嬉しくて。でも、何だか無性に恥ずかしくて。熱を持った瞳を、隠すようにうつむいた。

「……なんで、そんなに……」

 不機嫌な声が聞こえた。馬鹿じゃないの? と呆れたようなため息も。

 自分でも、この気持ちが何なのかは分からなかった。

 元気でやっているだろうかと空を仰いだこともあった。
 戦いの中にいると聞いたときは不安で――でも、姿を見かけたと聞いた時には、安堵で涙がこぼれた。地核に飲まれて消えたと聞いたときは何が何だか分からなくて、ただ悲しくて、苦しくて。

 こんな気持ちを、いったい何と呼ぶのだろう? イオンに感じたような、家族を思うような気持ちなのか。導師を思うような、友情なのか。――恋、なのか。

 一方的な執着なのか、それとも何か他の別のものなのか。
 そんなことなんて知らない。分からない。でも、生きていてくれた。

 望むのは、生きていて欲しい。そして、できるなら笑っていて欲しい。ただ、それだけだ。これほどに一方的で、傲慢(ごうまん)な思いは無い。
 自己満足だ。ただ、私が『そうであって欲しい』と願っているだけで――。

 けれどもし、そんな気持ちを、言葉にするとしたら。それは、きっと。




「……  、なんだ」

 ずっと言葉にならなかった。ただ、ただ、伝えたかった。
 その思いだけが、幾夜も夢となって、鈍い私の心に警鐘を鳴らしたのだろう。
 何て馬鹿なんだろう、私は。

「うん、そうだ。きっと、そうだったんだ」

 こんなにはっきりと求めているのに。
 あんなことになるまで、どうしてそれに気付かなかったのか。気付こうと、しなかったのか。

 ……本当に、馬鹿だ。私は。


「君のことが、好き、だから」


 たぶん、それだけのことだったのに。


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