ソラ駆ける虹
29
無風の空を、鳥の足に乗っては飛ぶ。
空、と言うのは語弊があるかもしれない。ここには、上も下も無い。白く間延びしていく世界はきらきらと光の粒を撒き散らしながら、ただ、そこにあるだけだ。
『あまり体を乗り出さないほうがいい』
「どうして?」
『ここは高密度の霊子結晶が集う場所だ。只人(ただびと)が落ちれば、自我を保てなくなる』
「死ぬってこと?」
『厳密には違うが、そう考えても間違いではない』
「そう」
返事をしながらも、はその言葉をどこか遠いもののように感じていた。
あの後、謝罪を続けるアスカには問いかけた。聞きたい事はただひとつ。自分は元の世界に帰れるのか、それだけだった。
応えは「是」だった。光の鳥に促されるままその体に身を寄せると、ほどなくして、音も無く景色が流れた。――飛んでいるのだ。それに気づいたのは、少し経ってからのことだった。どのくらいの時間飛んでいたのかはわからない。この世界は、時間も空間も、ひどくあいまいだったから。
帰れる、と聞いた時、不思議なほど喜びは無かった。むしろ、ひどい虚脱感に襲われた。ああ、これでもう、帰るしかなくなった。生き残る道を目の前にして全てを投げ打てるような覚悟は、自分には無い。
涙が頬をつたう。……馬鹿だ。泣く資格なんて、私には無いのに。
自分で切り捨ててきたのだ。彼の言葉なんて関係ない。結局、選んでここにたどり着いたのは自分の意思だ。私は、死にたくなかった。
涙と一緒に、全てが、この体から溶けて流れればいい。
記憶も、思いも。
そうしたら、少しは楽になれるだろうか?
そんな馬鹿なことを考えて。
けれど、やっぱり嫌だと思いなおす。馬鹿なのも自分だ。苦しいばかりのこの想いも、全部自分のものだ。せめて記憶の中の彼ぐらいは、持って行きたい。欠片となって零れ落ちる涙を、どうにか引き戻せないかと行方を探す。
その流れ着く先を見て、は震えた。どうして、と吐息が漏れた。
――彼だ。シンクが、そこにいる。
彼女だ。どうして、ここにいる――?
来るのは二度目になる音素の墓場――シンクはここをそう呼んでいた――で、遙か頭上を飛翔する彼女の姿を見つけたとき、シンクはこれは夢だと思った。
最後に見る夢が彼女だなんて、思っていたより自分は未練たらしい生き物だったらしい。
自重しながらも、シンクはせっかくだと開き直った。これで見納めになる。そう考えると、最後に見るのが彼女の泣き顔と言うのは、どうにも残念な話だった。さんざん彼女に辛く当たったくせに、益体(やくたい)も無くシンクは自分の夢にけちをつけた。
どうせ夢なら、笑えばいいのに。
いつも直視できなかった彼女の笑顔を思い浮かべてみる。こんなことなら、もっとしっかり見ておけばよかった。そんな後悔がふと押し寄せる。
黄金の鳥に乗る彼女は、ますます表情をゆがめ、真っ赤に目を泣き腫らしていた。そう言えば、泣くのも、あまり見たことが無かった。ただ一度、雨の降る地で「消えたくない」と肩を震わせる彼女の背中を見た時だけだ。
涙を流す彼女を見たのは、それが初めてだったかもしれない。
困ったように笑う姿や、悲しげに目を伏せる様子しか思い出せない。そう思うと、なんだがひどく損をした気分になった。
笑えばいいのに――。
どうせなら、もっと、笑った顔が見たかった。彼女が浮かべるソレを、シンクは疎ましく思いながらも嫌いではなかった。例えそれがイオンに向けられたものだとしても、目が追うのは止められない。苛々しながらも、どうしても目を離すことができなかった。その時を思い出して。
シンクはなんだか憮然とした気持ちになった。思い出すのは、イオンの隣に寄り添う彼女の姿だ。幸せそうに微笑む、二人がいた。
……どうして夢の中ですら、こんなにいらいらしないといけない。
むっとして、シンクは唇を引き結んだ。
見上げた先に空が見えた。鳥はそこを目指しているようだった。
そうか、帰るのか。
根拠も無く、そう感じた。とっさに手が伸びる。
――何だよ、これは!……余計なことをするんじゃない。いいじゃないか。あんなに帰りたがってたんだ、さっさと帰ればいい。こんな世界、いてもいいことなんて何も無い。
息を整え、気持ちを落ち着かせた。まったく。夢だというのに、何でこんなに疲れるんだ?
深いため息を付いてシンクは決めた。さっさと眠ろう。目覚めることの無い眠りだ。寝てる間に、自分を構成する音素も溶けて消えるだろう。そうしたら、疲れることも無い。
大きく息を吸い込んで、目を閉じた。そして一度だけ、ソラを仰ぎ見ようとして――シンクは信じられないものを見た。
まるで鳥のように両手を広げ、彼女が飛び降りてきた。
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