ソラ駆ける虹

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「シンク、シンク、ごめん!」
「なっ!? ――あんた、馬鹿!? 何で飛び降りてくるのさ!」

 とっさに彼女を受け止めながら、シンクは愕然とした。――夢じゃない!
 恐ろしいほどの現実味を持って、はシンクの目の前にいた。触れ合う肌から互いの熱が伝わるほどに、距離が近い。

「ごめん。やっぱり最後まで、私は、私のためにしか生きられない」

 ひどく嬉しそうに彼女は笑う。その顔を見ながら、シンクはかつて砂漠の上で彼女とした問答を思い出した。――私は死ねない。最後まで、己のためにしか生きられないから。
 そう言ったのは、彼女だった。

「だったら、どうしてこんな所に来るだよ! 死ねないって言ってたじゃないか」
「そう……だから来たの。――間に合って良かった。前は届かなかったけど……。そうだよ、自分から飛び込めばよかったのに。馬鹿だね、私は」

 わけの分からないことを言って、は微笑む。
 怒るシンクの頬に片手を添え、空を見る。遠く、光の鳥が、失った小さい生き物を探して降下してくるところだった。

「アスカ、決めたよ! 私の願いは、彼にする。彼を連れて行って!」
「何を――?」
「アスカは私に借りがある。だから、ひとつだけ願いを叶えてくれるんだって。……私の願いは、君にする。君を、私の世界に連れて行ってもらう」
「な!?」

 言葉を失うシンクを抱きしめて、は笑った。信じられないだろうけどね、と前置いて。

「私の世界に音素は無いの。だから、預言なんてものも存在しない。そんなものに気を取られることなく、生活できる」

 音素の無い世界。そんな話、初めて聞いた。そんなもの、あるわけが無い。あるとすれば、それは存在からして、全く異なる世界だ。構成から何から、隔たった世界。生きるものの根本から異なる場所だ。そこまで考えて、ふと、彼女の音素異常を思い出した。

 徐々に希薄になる彼女の音素情報。それは、薄まっていくのではなく、元に戻ろうとしていたのだとしたら? この世界に落ちた時、器としての彼女に、無理やり音素を詰め込んだ。けれど、そんな無茶なことには、限界がある。
 時と共に漏れ出す音素。それが、レプリカ情報を抜き取ったせいで、加速度的に進行したのだとしたら――。

「君は一度、そういうものに縛られないで生きてみるべきだよ。最初は心許無いだろうけど、大丈夫。きっとすぐ慣れる」

 根拠も無く、楽観的に彼女は言った。
 ひどく良い思いつきのように。子供のように、笑いながら。

「だって君、知らないでしょう? 雨の日、降水確率九十パーセントの時なんかに、雲の間から覗いた晴れた空とか。予定を変えて出かけた時の、わくわくする感じとか。かと思ったら、出先で雨に降られて、でも立ち寄った軒先で、思いもかけない人と再会した時の喜びとかさ。――試してみようよ。その中に、少しでも、君が喜ぶものが見つかるかもしれない。何も無いなんてこと、きっと無いよ」

 音素に溶けて消える彼女の姿を、つなぎ止めるように抱きしめる。
 光の粒子がゆらゆらとまたたいて、シンクの腕を伝った。――そんなこと、どうだっていいのに。

「人は生まれる場所は選べないけれど、死に場所だったら、ある程度は選べる。だから、生きてみて。それでどうしても嫌なら、その時に考えればいいじゃない」

 ね、と微笑む彼女に、すがるように訴える。ボクは、そんなこと望んじゃいない。押し付けるな。迷惑だ。

「うん。だから、ごめん。本当は、私が君に生きていて欲しいだけなんだ。自己満足だね。本当、ごめん」

 ボクは、君がそばにいてくれれば、それでいい。

 口に出したつもりは無かったのに、彼女には聞こえていたみたいだった。
 びっくりしたように目を見開いて、彼女は泣きそうに笑った。……ああ、やっぱり。彼女は自分の前ではこんな表情ばかりだ。


 互いが互いを抱きしめながら、くるくると二人は回る。
 その隣を、光の鳥がやさしくすり抜けた。光の帯が、天へと伸びる。


 小さくなる心音を聴きながら二人は静かに目を閉じた。


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