ソラ駆ける虹

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「シンクに拒絶されて、本当はほっとした自分がいた」

 旅の終りに。がぽつりと話したことがある。
 年老いた考古学者が、死ぬ間際にこう残した。

「彼の事は好きだったし、叶うならそばにいたかった。でも、それ以上に、私は死にたくなかった。――こういうのを『死』と言っていいのか分からないけれど……」

 そっと手を当てた頬は、かげろうのように透けていた。するりと降ろした袖口から伸びる腕は、その向こうを透かして見えるほど薄く、もう指先は無い。
 体の末端から少しづつ、彼女は消えようとしていた。

「ちょっとずつ透明になっていく手を見て、『やっぱりね』って思った。ここは、私の世界じゃない。この世界は、私を受け入れない。だから、弾かれるんだって」

 彼女にしては珍しい、皮肉るような笑みだった。違う、と言ってやりたかったが、とてもできなかった。あまりにもはっきりとした現実が目の前にあったからだ。

「次に感じたのは恐怖と……怒り、だね。このまま本当に消えてしまうのかって。どうして? こんな所、来たくて来たんじゃない。勝手に連れて来られて、それでも何とかがんばっていたのに。こんな終わり方。――どうして、私ばかり……! って」

 その時のことは、あまり思い出したくないと彼女は言った。あまりにも身勝手で、自分本位だったと。自分のことばかり考えていて、そんな自分が嫌で、表面上は必死で隠していたことも。

「そして、思った。この世界の人にとって、それが預言(スコア)なんだって。自分の意思なんて関係ない。ある日突然突きつけられるもの。どんなに避けようと思っても、逃げられない。必ず最後には『そこ』にたどり着く。私の世界では、それはよく、運命と言う言葉で表されたけれど」

 運命は、変えられる――。
 そんな言葉が、彼女の世界では蔓延していた。だから、なんとかなる。なんとかするんだ、と思っていたのに。

「そんな時、導師が死んだと聞かされた。その死すら、預言されていたものだって。――怖かったよ。まるで、すぐ先の、自分の姿を見せ付けられたようで」

 震えが止まらなかったと彼女は言った。そしてすぐ、そんなことを考えた自分を恥じたとも。導師の死を素直に悲しめなかった自分が信じられなかった。こんなに醜い生き物なんだと、ひどく思い知らされた。
 けれど。

「怖かった。ただ死ぬのが怖かった。そんな時、シンクに言われたんだ。『元の世界に帰ればいい』って」

 そこでは深く息を吐いた。まるで懺悔するかのように、祈りの形に、消えてしまった手を組む。

「その瞬間、確かに歓喜を覚えた自分がいたよ。私にはそれが出来る。帰ればいい。そしたら、死ななくてすむかもしれないって」

 でも、それができない人はどうすればいい――?

 そう思ったとき、彼の気持ちが、やっと分かった気がした。




「あの娘が無事に元の世界に帰れたのか、わしには分からん。帰れたとして、消えずに済んだのかも、わしには分からん。あの子が好いた少年は、大戦の折、決戦の地エルドラントにて命を終えたと聞いた。……なぁ、思わんか? もしかしたら、あの二人は、この世界とは別のどこかで、一緒になれたんじゃないだろうかと。二人は、まるで同じように『世界に溶けて消えた』んじゃ。そんなことが、あってもいいとは思わんか?」

 やせ細った腕に力を籠めて、老人は若い僧の袖にすがりついた。もう見えていないだろうに、白く濁った瞳に、狂気のような赤が血走っている。

「そう思うのは、わしの勝手な希望じゃな……。そうあってくれれば、少しは、この胸に巣食う後悔も薄れる。ただ、な。願っているだけじゃ。安らかであるといい。笑っているといい。愛しい娘と同じ声を持った、あの少女が。孫と同じ顔をした、あの少年が」

 最後の力を使い果たしたように、老人の体から力が抜けた。崩れ落ちそうになる体を僧は受け止め、寝台に横たえる。
 小刻みに震える手を握り締めて、最後の言葉に耳を傾けた。

「おぬしが幸せであれと願った、あの娘が――。……なぁ、イオン。……我が孫よ」

 それが最後だった。
 かさかさに枯れた手が力を失う。すでに視力を失っていた瞳は、堅く閉ざされていた。日に焼け、多くの傷を負った顔には、苦悩と共にあった彼の生を思わせる深いしわが刻まれていた。

 ひとつの命が、その日、消えた。


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