ソラ駆ける虹

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 身寄りは無くとも、多くの人に慕われた老人だった。
 扉の外で待っていた縁者達に後を任せ、青年は部屋の前で祈りを捧げた。――そして日の光が刺す中庭へと足を向ける。
 ふと、雨の匂いが鼻についた。うっすら濡れた木の葉が、通り雨の名残を今に伝えている。

 穏やかな日だった。雨上がりのゆるやかな春風が、緑の髪を優しく揺らす。
 雲間からきらきらと光がこぼれた。そこに浮かぶ何かを捕らえようと目を細めた時、軽やかな声が耳に響いた。

「フローリアン!」

 庭の奥。そこにある回廊から、青年を呼ぶ声がする。
 手を振り駆けてくるのは、はつらつとした笑顔の黒髪の女性だ。身に付けた衣は謡師職のもの。この年で、しかも女性でとなると、驚くべき位階の高さである。

「――アニス!? ……会談はどうしたの? ダアト代表で行って来るって言ってたのに」

 驚き目を見開いたのは、フローリアン。無垢な者、という名を与えられた、導師イオンのレプリカ。その成長した姿であった。

「もちろん、ちゃっちゃと済ませてきたよ! 放っとくと脱線ばかりするんだもん。やることはまだいっぱいあるってのに、あの大人達は――!」

 ぐぬぬ、と肩を怒らせるアニスの姿は、美しく成長した容姿や、驚くべき速さで出世を遂げた高い能力に反してひどく子供っぽい。
 出るところに出れば、ちゃんと振舞える。けれど今回のように古い友人たちに合うと途端に……彼らといた頃に。一緒に旅をしていた頃のような物言いに戻ってしまうのだ。

 それはそれで可愛いし、面白いから、フローリアンは特に何を言わなかった。怒るアニスを楽しげに見守る。ストップが入らないのを良いことに、アニスはナタリアがどうの、とか大佐がまた、とか続けていたが、はっと我に返った。そんなことより! とほわほわ〜んとしているフローリアンに詰め寄る。

「今日、初めてのお勤めだったんでしょう? 大丈夫だった?」

 アニスの言うお勤めとは、先ほどフローリアンがしていたことだった。命の終りに立ち会う。そして祈りを捧げ、その魂の安らかなるを願う――。
 成長したフローリアンは、自然とローレライ教団での神職を希望した。大好きなアニスの力になりたかったからでもあったし、それ以外の『思い』からでもあった。
 命を奪われた兄弟たち。死んでしまった多くの<人間・複製人間>(ひと)達。今なお苦しむたくさんの命……。そのために、自分は何か出来ないだろうか?
 今日は。そのための大事な一歩だったのだ。

「うん。おじいさんのお話を聞いたよ。不思議な話だった。なんだか、他人事とは思えなかったよ」

 死の間際に出された言葉は、たやすく吹聴されるものでは無い。だから、フローリアンは多くは語らなかった。アニスも深く聞かなかった。それが死者に対する礼儀だったからだ。

「ただ、幸せだといいなって思った。今生きている人も、死んでしまった人達も、みんな」

 アニスの目が潤む。初めて会った時から、アニスはよくこんな顔をする。泣かないで、と慰めたくても、アニスは自分が近寄ると余計泣けなくなる。そう気づいてからは、フローリアンはいつも見ないふりをする。――いつか、アニスが心から笑えるようになるといい。そしてその時に、アニスの隣にいるのが自分だったら嬉しい。そう願って。

「幸せでいて欲しい。笑っていて欲しい。そのために、僕はがんばるよ。この手がどれだけのことができるか分からないけれど……。その日が来るまで、僕は」

 そうだね、と呟くアニスの手のひらをぎゅっと握る。つないだ手を、アニスは最近、ようやく握り返してくれるようになった。細い力で、おそるおそる。何度も何度も、ごめんなさいと呟きながら。

 遠い空を仰いで、フローリアンは思う。



 『 しあわせであるといい。その胸に残る傷が、少しでも、時と共に癒されるように 』

 『 おだやかであるといい。大地をそよぐ風が、遠き地にいる友人たちに、この想いを伝えてくれることを願って 』

 『 ――哀しみの向こうに、確かに、暖かな思い出もあったのだから―― 』

 『 わらっているといい。大人も子供も、オリジナルもレプリカも 』

 『 望まれず生まれた命だとしても 』






 私たち、は生きているのだから。






 あの、ソラ駆ける虹のように。

 生まれも、国も、世界すら超えて。




 『 この祈りが、届きますように 』




fin
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