「まるで神隠しだね」明らかに、常軌を逸する出来事であった。

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 一方その頃、中つ国では。


「これは、一体……」

 今か今かと攻撃を仕掛ける時期を計っていた岩長姫は、突如無人となった橿原宮(かしはらのみや)の姿に驚きを隠せないでいた。

「誰か、見張りは! ここをずっと見張っていた奴いたんだろう!? さっさと報告に来ないかい!」

 鋭い叱責に、まろぶように転び出る兵士がいた。年若い兵士だ。山野育ちのおかげか、恐ろしいほど目が良いのを買われて、見張り役を任じられていた男である。
 その男は、何か信じられないものでも見たような風で、その驚きをどう表現していいのか分からずに、混乱する頭の中必死で言葉を探していた。

「いいかい、落ち着きな。誰もあんたを責めてるんじゃないん。見たままの事を言えばいいんだ」

 小刻みに手を震わせながら肩で息をする兵士に、これでは埒(らち)が明かない考え、つとめておだやかに岩長姫は諭した。

 そのかいあってのことだろうか。先ほどまで理解しがたい状況に恐怖に打ち震えていた男は、詰めていた息をようやく思い出したようで一度大きく深呼吸をした。激しく鳴る動悸を抑えながら、息を吸い、吐く。

 それを幾度か繰り返す内に、いくつかの言葉が並び出て来た。

「――霧、だって?」
「はい」

 その内容は、驚くべきものだった。

「黄泉比良坂(よもつひらさか)に通じる洞窟から、何やら兵が駆け下りてきたかと思ったら急に。霧……と言いましょうか。薄暗い、もやのようなものが橿原宮を覆ったのです」

 その日は良く晴れた、気持ちの良い風の吹く日であった。もやなどが出る天候ではなかったのだ。

「すぐにお知らせしなければと思いました。けれど何故か体が動かなかったのです。息も出来ずにその様を見つめていると、ほどなくしてもやは消えました。その時には……」
「常世の兵はいなくなっていた、と言うわけかい」
「はい」

 言う方も半信半疑ならば、聞く方も、まるで信じられない話だった。

 数百の兵が、突然消えたのである。そんな事はあるはずの無いことであったし、明らかに常軌を逸する出来事であった。

「まるで神隠しだね」

 冗談めかして嘯(うそぶ)いた岩長姫であったが、内心は複雑なものであった。言い知れぬ焦燥を感じていた。

 大体にして、この戦いは最初から奇妙なものだったのだ。

 今まで決して、千引岩(ちびきのいわ)を越えてやってくることが無かった常世の者が、突如中つ国に姿を現したことからまずおかしな状況であった。その上何を思ったのか、何の前触れも無しに常世の国は中つ国に戦を仕掛けてきたのだ。
 当時の橿原宮は混乱の渦中にあったと言う。

 いや、よしんば戦となったとしても、それ自体は構わない。野心を持つ人と人とが一つ世にあれば、互いを食い合おうとするのは、もはや人の業であろう。
 何が欲しかったのかは知らないが、奪うため、戦を仕掛けて来たのならば受けて立つまでのこと。疑問がはさむ余地も無いことであったはずなのだが。

 そこが問題だった。

 中つ国も、それ相応の備えはしていたのだ。いくら奇襲を受けたとは言っても、橿原宮は国の要。決して落ちることの無いよう、厳重な警戒の中にあったのに。

 夜の闇から出(い)づる影のように、誰に悟られること無く、常世の兵は橿原宮を急襲したのである。
 それは見事な制圧であった。
 とても人の技とは思えぬほど鮮やかに、地より這い出た常世の者は中つ国を占拠したのである。

 そうして現れた時と同じようにまた、常世の兵は唐突に姿を消した。
 せっかく手に入れた葦原の大地を、何の躊躇(ためらい)も無く手放したのだ。そうそう出来ることでは無い。

 それはまるで、狙いが別の物であったかのようで――。

 考えても出ない答えに、岩長姫は盛大に顔をしかめた。
 とても普通の思考回路では追いつかない。人智を超えた用兵は、唯人(ただびと)の身で相対するには過ぎたものだ。

「一体、どうなってるんだろうねぇ」

 この世界は。

 そうこぼす老将軍の呟きは、誰に聞かれる事も無く豊葦原の空に消えた。






「そうですか。姫様のお姿が……」

 密かに常世の国に潜らせていた密偵の報告に、狭井君の瞳が静かに下りた。

 先の大戦で、姫に付けた密偵はその姿を見失ってしまったらしい。
 生きているのか、死んでいるのか。それすら分からない状況である。常世の皇子の陣中を探ろうにも、皇軍に阻まれて近寄ることすら出来ない。

 一礼して、体重を感じさせない動きで黒装束の男は言葉を絶った。
 泰然と動かず、思索に向ける主君の言葉をただ黙って待つ。

 しばらくそのまま意識を集中していた狭井君であったが、ちろちろとかげろう蝋燭の明かりに目を開いた。
 そこにあったのは、まるで湖面のように内心を悟らせない深い瞳で。

「案ずることはありません。姫には龍神様の……天つ神の守護がおありになりますから」

 誰に言うでもなく、そう彼女はつぶやいた。
 再び意識を集中させるため瞳を閉じ、祈る。

 そうして石造のように一切の動きを止めた。





 薄暗い神の間で、寄神者の君は何かを掴み取ろうとしていた。


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