振り返り、目にした人物にアシュヴィンは驚きで目を開いた。

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 劣勢であった。

 いや、はっきり言って絶望的な状況だった。
 援軍の当ても無く、補給も絶たれ、後は篭城するしか道は無い。
 皇軍の猛攻は熾烈を極め、兵は文字通り、息を休める間すら無く、先の見えない消耗戦にただただ疲弊して。

 全てが限界に達したかのように見えた。






「――黒麒麟?」

 夜遅く、常世の国にわずかに残る緑の山を訪れた二人は、口論の末ようやく互いの意見を認めた。

 決して逃げないと断言する千尋に、アシュヴィンは――なぜだろうか――死なせてしまうという焦燥以上に、深い喜びを感じて。
 今までに無いつながりを感じた。
 いつものような口の端を上げるような皮肉な笑みではない。凝り固まった心をほぐすような、自然な笑みがこぼれる。

 途端に真っ赤になって、おろおろと挙動不審になった千尋が、妙に可愛く見えた。
 いつもが毅然としている分、こうした素顔の娘が垣間見えた時、アシュヴィンは何とも不思議な気持ちに襲われる。どちらが本当の千尋なのだろう。
 初めて出会ったあの時から、ずっと疑問に思っていたのだ。

 けれど彼女を知るたびに、そうしてこの度になって、ようやくその考えを改めた。
 恐らく、どちらも本物なのだ。
 暗い森の中愕然と目を見張る娘も、兵を率いて弓を引き絞る姫も、花の中で微笑む彼女も。
 その全てが、千尋だった。誇り高き思いも、迷いも嘆きも、矛盾すらひっくるめて、たった一人のひとだったのだ。

 伝えたい思いがあった。伝えなければならない言葉があった。
 けれどそれは形になる前に遮られてしまった。傍近くに控えていたはずの黒麒麟が、注意を引くような、低い嘶(いなな)きを発したからだ。
 怪訝に思い、振り返り。――目にした人物に、アシュヴィンは驚きで目を開いた。

「まさか……サティ」

 愕然と呟くアシュヴィンの声を受けて、その男は月明かりに一歩踏み出す。

 無言で黒麒麟の背から姿を表したのは、敵軍の筆頭将軍。
 その見事な赤い髪と、目を見張るような炎術から炎雷(ほのいかずち)と呼ばれるアシュヴィンの兄、ナーサティヤだった。




「――千尋、さがっていろ」

 じっと千尋を見据える男の鋭い視線から守るように、アシュヴィンは千尋を背にかばった。そして、辺りの気配を探る。

 おかしな事だった。曲がりも為しに、ナーサティヤは現在、皇軍を率いる将軍だ。単身、軍を離れるようなことは無い。必ず近くに護衛なり自分達を捕らえる兵なりを控えさせているだろうと考えたのだが、一向にその気配が見当たらない。

 何のつもりだ。

 しばし無言の攻防戦が繰り広げられる。



 張り詰めた空気の中、空の浮かぶ月に、薄く雲がかかった。

 ――来るか?

 アシュヴィンが手が腰の剣にかかる。



 けれど突きつけられたのは、冷たい光を放つ白刃ではなかった 空気を割くような言葉を、氷の瞳をした炎雷は投げかけたのだ。

「皇(ラージャ)は、もはや人ではない」

 第一声がそれであった。
 相手の意図を測りかねて、アシュヴィンの片眉がピクリと跳ねる。次いで、皮肉げに笑みを一つ。

「神、とでも言うつもりか?」
「…………」

 茶々を入れる弟の言葉に、兄は無反応だった。
 恐ろしいほど真剣な表情で、今なおアシュヴィンの背にかばわれる千尋をじっと見ている。

「あれの狙いは、その娘だ。その娘さえを引き渡せば、アシュ、お前だけなら助けられる」

 予想もしていなかった発言に二人の息が止まった。内容に関してもそうであったが、まさかこの期に及んで、そんな言葉が出てくるとは思わなかったからだ。

 もはや言い逃れられる状況では無いのだ。あの禍日神から常世の国を守るためと名目を挙げての戦でだったが、皇に反旗を翻したのは事実である。いくら皇の息子とは言え、見逃してもらえるはずもない。
 完全な懐柔策だった。
 きっと瞳を吊り上げて、千尋が何か言おうと一歩踏み出す。

 しかしそれを遮って、高らかな笑いが響いた。――アシュヴィンだ。底冷えのする目でとんでもないことを言い出した兄を見据えている。

「それで? オレが従うとでも思ったのか、サティ」
「……やはり無駄か」
「愚問だな」

 その答えを、半ば確信していたのだろう。何の冗談だと冷めた目で睨みつける弟の視線を受け、ナーサティヤは静かに嘆息した。
 わずかに細められた瞳には、諦めと、呆れと……どこか誇らしいような、そんな思いが感じられて。

 千尋は目を見張った。
 自分は、何かひどい思い違いをしていたのかもしれない。この人は、アシュヴィンを寝返らせるために来たのではないのだ。その思いを、ただ確かめに来ただけなのだ。だとしたら――。

「お前達は、あの黒い太陽を落としてみせるか?」

 力を合わせることはできないのか。
 そう、問いかけようとする千尋の甘さを突き放すように、ナーサティヤの声が降りかかった。全てを拒絶した、冷厳なまなざし。

 その瞳を見て、千尋は理解した。駄目だと、思った。

 この人は、己の立ち位置を明確に理解している。その上で、その場にいることを決めてしまったのだ。一人崖に身を躍らせた、ムドガラ将軍と同じように。

 苦い思いが、胸にこみ上げた。
 けれど覚悟を決めた人に対して、できることは少ない。ただその意思に答えるように、千尋はアシュヴィンの隣に並んだ。そんな妻の姿に、ひっそりと笑みを浮かべ、アシュヴィンは兄を見返す。

 決意を胸に、千尋はまっすぐ顔を上げた。

 意図せずして、二人の視線は同時に目の前に立つ人に向けられたことになる。その強い意志の力を前に、ナーサティヤはわずかに目を見開いた。


「――明朝、日の出と共に総攻撃をかける。それまでの命、大切にしろ」

 しばし無言で二人を見たナーサティヤは、それだけ残して、並び立つ二人を背を向けた。



 彼が振り返る事は一度も無かった。


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