天に弓ひく
千尋達は今、根の宮の深部。皇(ラージャ)へと至る回廊を走っていた。
手傷を負いながらも命を取り留めていたアシュヴィンの弟、シャニと――驚く無かれ、ナーサティヤ皇子の手引きがあってのことだ。
あの戦の後、根の宮は尋常ならざる瘴気に包まれた。そして遠く天に浮かぶだけだった禍日神が宮のすぐ傍まで接近したことで、人々は理解した。
――皇は人の道より外れた。
ゆるゆると近づきつつあった滅びへの道が急速に進行するに至って、ようやく常世の皇子の言い分を認めたのだろう。
途中すれ違う官人達の目には、あからさまにアシュヴィンに縋る思いが籠められていた。
それに鷹揚にうなずく彼を、千尋はじっと見上げていた。宮に向かうと決まってから、彼はずっと張り詰めていた。
無理も無い。
決別すると決めた相手とは言え、戦う相手は実の父親なのだから。
「なんだ、先程から。やけに物言いたげだな」
気を散らすと命取りになるぞとうそぶく皇子に、珍しく言い返しもせず千尋は視線を落とした。
言いたい言葉はいくつもあった。けれどそのどれもが、的外れなような気がして――。
本当にいいのね?
ただ、目で問う。
そんな千尋を見て、アシュヴィンはためらう様に目を細めた。
少し惑い、そしてこれもまた珍しく、まるで泣き笑いのような笑みを浮かべ。
落ち着けるようにひとつ瞳を閉じ、開いた先にいる女を見た時には心は決まっていた。
……ああ。
言葉は無かった。
互いに、口にしなくても、相手の心が手に取るように感じられた。
「ここを開けたら、後戻りは出来ない。――いいか?」
長い階段を上った先にある重厚な作りの扉を前に、アシュヴィンは一度だけ千尋に尋ねた。それに頷くことで千尋は返す。
背には頼りになる仲間がいた。前には彼がいる。
思い煩うことなど何も無い。
つがいのきしむ音がして、扉が開く。
荒れ果てた常世の空の向こうに、禍々しい神が圧倒的な力を持ち、こちらを見据えている。
身を叩く激しい風。その中で。
瞳を合わせて、二人は微笑った。