「泣くなよ」
鋭い岩壁の続く山中を、千尋は一人、必死に駆けていた。
「いたぞ、あそこだ!」
「中つ国の二ノ姫だ。黒雷の后だ! 捕らえれば褒美は思いのままだぞ、決して逃がすな!!」
倒しても倒しても、きりがなかった。
途中、同じように逃げる自軍の兵とも幾度か合流したが、執拗な追っ手のかかる二ノ姫を逃がすために彼らはおとりになると言って。
止める間も無かった。
誰もが千尋と、そしてアシュヴィンの名を叫び、死んでいった。
それが何度と無く繰り返され、嘆く声も枯れた頃、千尋はどうしようもなく追い詰められていた。
「――くっ」
囲まれた。
目の前をぐるりと取り囲むのは、皇軍の徽章を身にまとった常世の兵達だ。背後には崖。どこにも逃げ場は無い。
今はまだ、千尋の持つ弓や伏兵を警戒して距離を開けてはいるが、じりじりと彼らはその差を詰めてきている。一瞬。何か一つきっかけさえあれば、いっせいに千尋に襲い掛かる魂胆であろう。
ほの暗い欲に血走る眼が、千尋の体をじっとりとなで上げるように向けられる。
怯んだのは一瞬だった。
そんな自分を恥じて、弱い心を振り払うかのように、こう然と千尋は顔を上げた。
遠く地平線の先で、黒い太陽がまるであざ笑うかのようにちろちろと炎を上げている。それをきつく睨み返し、油断無く弓を構える。
覚悟は決めた。
この上で、見苦しい振る舞いはしたくない。慕って付いてきてくれた仲間達に恥じないよう、最期まで、自分は皇女らしく生きようと――。
「っ……!」
思ったのに。決めたはずなのに。
どうしてなのだろう。不意に浮かんだのはあの人の姿で。
来るはずは無いと分かっていた。彼はこの戦の総大将だ。おいそれて主力の陣を離れていい立場でも無いし、こんな所に来て良い状況でもなかった。
それなのに――。
「待ちくたびれたか?」
そう思っていたからこそ余計、その声が聞こえたときは信じられなかった。
彼の放った雷光によって眼前の敵兵がばたばたと倒れていっても。太陽を遮り立つ常世の皇子が、真っ直ぐに千尋に向かって歩いて来ても。
千尋はただ愕然と目を見張っていた。
「――どうして来たの!?」
「来て欲しくなかったような口ぶりだな」
悠々と姿を現したその人を見て、千尋が放った言葉はそれだった。それ以外、頭に上らなかったのだ。
せっかく助けに来たというのに、后のあまりな物言いに、アシュヴィンは皮肉に笑って返したものだった。しかしすぐにその態度を改めた。
彼女の表情を見てしまったからである。
「……冗談だ。そんな顔をするな」
敵に囲まれても気丈に前を向いていた日輪のごとき姿であったのに。
その凄烈なまでの眼差しは、アシュヴィンの姿を見てもろくも崩れた。先ほどまでの残滓が残る凛とした面持ちに、まるで道に迷った幼子のような儚い風情が混在している。
そんな姫の様子が、アシュヴィンの気持ちをどうしようもなく揺らした。
「泣くなよ」
「――っ、泣いてない!」
さっと目元を払って、真っ赤な顔で千尋はアシュヴィンをねめつけた。
それに笑って、アシュヴィンは応える。
「それでこそ我が后だ」
そんな名ばかりの夫の言葉を、『嬉しい』と思ってしまう己の心を。
止める術を千尋は持っていなかった。
そうして後続に控えていた皇子の護衛部隊と合流して、本陣に引き上げる途中であった。
主力部隊が敵の強襲を受け、皇子の変わりに軍をまとめていたリブが、敵の刃に倒れたとの知らせを受けたのは。