上級生と下級生
ひょいっと教室に顔を覗かせた相手を見て。
赤也の顔がありえないほど引きつったのを見て爆笑したクラスメートは、すぐさま叩き込まれた拳によって夢の国へと旅立った。
「な、な、な、何であんたがここに――!」
「や、 2年の切原赤也君」
親しげに手を振る相手に、わなわなと指差す赤也の手が震えた。
正直、あの日の出来事は赤也にとっては、すでに葬り去った過去だった。
女に遅れを取ったなんて誰にも言えないし、言いたくない。
思い出したくも無い出来事だ。
あの日から数日。ふとした時に思い出して苛々したり、人気の無い裏庭を通るたびにびくびくしたり……。
何と言うか、落ち着かない日々を過ごしたものだが、それも今や昔の話。あれから何度か裏庭にも足を運んだけれど(もちろん周囲には十分注意して)一度もその相手を見つけることが出来なかったのだから。
――ああ、そうか、アレは夢だったのか。
赤也が自分の精神衛生上とても良い結論に達してしまっても無理は無かったと言っておく。
――良かった。これで苛々したりびくびくしたり、生垣を突っ切るたびに足元に注意する必要も無いんだ。
ずっと胸にたまっていたむかむかが解消されてすっきりした。軽い足取りで、赤也は平和な日常を謳歌していたのだ。
あれは夢。そう思っていた。……思っていた、のに。
ざわつき始めたクラスメートを置いて、赤也は手招かれるまま教室を出た。
ためらいはあった。が、背を向けるのは論外だった。それに、一言ぐらい文句を言わなければ、腹の虫も収まらない。
ここまで来れば毒も皿まで、だ。さあいつでも来い。
赤也は息せき切って教室を飛び出した。
「あの」
「――っ」
とっさに一歩下がってしまった。が、これは万が一に備えて構えを取っただけだ。
腰が引けているなんてことは無い。絶対、無い。
若干冷や汗を流し始めた赤也とは対照的に、少女は落ち着いたものだった。足音も立てずに一歩踏み出し、……少しためらった後、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまない。腕は大丈夫だったか?」
「は?」
てっきり以前のように鋭い手刀が繰り出されるだろうと身構えていた赤也は、思いも寄らぬ言葉に少々つんのめった。内容も変だが、口調がこの年頃の女にしてはどこか、おかしい。
女、だよな?
戸惑いと警戒と。不審な上級生を上から下へと見下ろす。…………女だな。
「本当に情けない。どうも私は寝起きが良くないらしく……」
ばつが悪そうに頬を掻きながら、上級生の少女は言葉をつむぐ。
人気が無いところで居眠りするようにしていたのだが、油断するにもほどがあった。今後無いように気をつけるから、など等。
「君がテニス部だと、さっき知ったんだ。加減はしたつもりだったが、かなり強く腕をひねったから、わびもかねてと思って」
ごそごそ取り出したのは、包帯やら、シップやら、テーピング用のテープやらで。
「テーピングには結構自信がある。良かったら」
「いや、別にたいした怪我してないっすから」
「そうか。なら、良かった」
心底安心した様子で胸をなでおろす相手に、不思議な気持ちになった。
思ってたより悪い奴じゃなかったのか、とか。女の割りに妙に堅い言い方するな、とか。何か、色々。
ついでにようやく、相手が上級生だってことも思い出した。
悲しいかな、副部長の徹底した教育が功を奏したらしい。そうすると口調も自然と整ってしまって。
照れ臭いような、腹立たしいような、何だかよく分からないもやもや湧き上がってくる。
なんだこれ。
経験の無い不思議な気持ちと赤也が向き合っているうちに、少女は言いたい事を終えたようだった。時間を取らせた、と妙に格好良く目礼する。
「本当に申し訳なかった」
深々と頭を下げ、前と同じように前触れも無く立ち去ろうとした。
これきりのはずだった。
接点も何も無い相手だ。謝罪も受けたし、これ以上何かあるものでもない。せいぜい、学校で見かけた時に「あの時の……」と思うぐらいの相手で、話したりするのはこれが最後だろうと、そう――。
そう思った時には、声を上げていた。
「あんた、名前は!?」
答えるまで一拍。
少女は振り向いた。ちょっと驚いた様子で目を見開いて。それからじっと赤也の顔を見て。
そして――。
「……、!」
なぜ呼び止めたのか、今になってもよく分からない。でも。
晴れた五月の空のように、颯爽と笑う彼女に。
なぜかもう一度『会いたい』と思ってしまったんだ。
学校20題「17.上級生と下級生」