保健室の薬品の匂い
移動教室で廊下を歩いたとき、ふと漂ってきた消毒液の香りに幸村は足を止めた。
――保健室か。
青い顔をした男子生徒が、礼を言いながら出てくるのが見えた。
具合が悪かったのだろう。かばんを片手に、ふらふらと下駄箱に向かうところを見ると、今日は早退するらしい。
つい先日まで入院していた幸村にとって、保健室の薬品の匂いはひどく身近で、それと同時に痛みを思い出させるものだった。幸いなことに今では病気も完治して以前と変わらない生活をできるようになったけれど、一歩違えば今でも病院の窓から外を見るだけの生活だったかもしれなかったのだ。
それを思うと、今ここにいることが、とても幸せなことなんだとひどく実感できる。
『もう二度と来ないから』
ふいに、一人の少女の声が頭をかすめた。
あれはいつの事だっただろうか? 確かな時間は覚えていないけれど、入院して少し経った頃のことだったように思う。
「幸村ー見舞いに来たぜ!」
「失礼する」
かごに入った色とりどりの華を片手に部屋に入ってきたのは、つい先日までは毎日顔を突き合わせていたクラスメート達だった。
これ見舞いの品、とにこにこ笑って言うのはクラス委員長の高見で、その後ろからマイペースに歩いてくるのは一学期席が隣だったさんだ。
「ああ、ありがとう。そこのテーブルに置いておいてくれるかな。後で親が飾ってくれるから」
わかったーと机に置く高見に、すまないね、と幸村は返す。
その間には二人分の丸椅子を用意していた。がたがたと、ベットの脇に椅子を置いた。
「悪いね、こんな格好で。検査の関係で今日一日はベットの中で大人しくしておくように言われてるんだ」
苦笑して言う幸村の格好とは、ベットに横たわり、上半身だけ身を起こしている姿勢のことだ。そんなの謝ることじゃないだろ〜と笑う委員長に、幸村はそうだねと笑って返した。
それから少し話をした。
クラスみんなで書いた色紙だとか、幸村が入院してからの学校の様子はどうだ、とか。
もうすぐ定期テストが近くてうんざり、とか、テニス部のみんなは相変わらず元気で真田君は問題児の一年生の指導に手を焼いてるみたいだ、とか。
気さくに話す委員長の言葉を聴きながら、幸村は相手の二人に分からないほど微かに眉を上げた。同席者の異変に気づいたからだ。
一緒に来たは、部屋に入ってからまだ一度も口を開いていない。
「さんは、部活の調子はどうかな? 今年の弓道部は粒ぞろいだって聞いてるけれど」
静かに話を聞いている彼女に、幸村は笑いかけた。
隣だった時に聞いた話。弓道部部長の彼女には乗りやすい話題だと踏んでの選択だ。以前、雑談した時と同じように乗ってくるだろうと思っていたのだけれど。
「順調」
彼女の表情は変わらない。相変わらず静かで、無表情。ともすれば、深刻で暗いと言えそうな顔をしている。
正直な話、病院ではそういう空気は好まれない。患者の前では余計に、だ。
たいていはそれを踏まえた上で見舞いに来るのが暗黙のルールみたいなものであったし、だいたいの見舞い客は暗い思いを抱えていても、患者の前ではそれを出さないようにしている。
それは相手の精神的負担を軽減させるためのものなのだ。
しかし今、はそれを台無しにしているようなものだった。現に隣にいる委員長は少し物言いたげにを見ている。これが当然の反応だ。普通は、相手のこういった配慮の無い言動に、人は不快感を示すものなのだが――。
「そう。それは良かったね」
そんなの気にしてないよ、と言うかのごとく、幸村は笑った。
柔らかに。
それが、学校での自分だったからだ。どんな時でも動じない、立海大付属の幸村。それにクラスメートという要素をプラスして、少しだけ親しげに。
そんな幸村の対応にほっとしたように顔を緩めて、委員長は身を乗り出した。
が元気が無い分、自分が盛り立てようというのだろう。いつもより三割り増し明るい声で幸村に笑いかける。
「彼女、すごいんだぜ。この間の関東大会、知ってるか幸村。他を引き離して見事個人優勝までしちゃって」
ガタン――。
委員長の言葉をさえぎるように、彼女は立ち上がった。
驚きに目を見開く高見を歯牙にもかけず、足元に置いたかばんを持ち上げ、幸村を見る。
「ごめん、幸村君。もう二度と来ないから」
「さん?」
「行こう、委員長」
驚く委員長を引っ張って、彼女は扉を目指す。あわてた牽引物が椅子に足をひっかけたが、それすらも引きずって扉にたどり着いた。
「さん、俺、何か気に触ることを?」
扉のノブをひねる一瞬の時間を捕らえて、幸村は問いかけた。
一瞬、彼女が立ち止まった。扉に手をかけたまま、目だけが振り返る。
「君は、さっきからずっと笑ってる」
「さん?」
「ごめん」
そう言って出て行った彼女は、それから以降、本当に一度も見舞いに訪れることは無かった。
あれは、どう言う意味だったんだろう。退院してからも、幸村は時々考える。
気を使ってくれたのだろうか? テニスのできない幸村に、今も部活で活躍している自分の話をするのは良くないと。不愉快にさせる、と。
そんなことは無かったけれど……。うらやましく思ったのは事実だった。そういう意味では彼女の配慮は間違ってはいない。けれど、それだけなら『笑ってる』と言った意味が分からない。
あるいは、気づかれていたのだろうか。幸村が――意識して笑っていたことに。
病気を患ったことで、幸村は己がどれだけ弱くちっぽけな存在だったかを知った。
思い通りに動かない体に対する苛立ち。息をすることすら困難な夜の恐怖。籠の鳥のように病院に繋ぎ止められた自分と、そんな事とは関係無く回り続ける世界。そしてテニスができないこと。その苦しみ。焦り。
それら全ての感情が、幸村を支配し、駆り立て、あざ笑った。それに翻弄されるだけの自分に、あの頃の幸村はひどく疲れていた。
だがしかし。例えそれでも、幸村は笑った。
親の前で、医者の前で、先生の前で、チームメイトの前で。
それ以外など論外だった。立海大テニス部の部長として、一人の人間、幸村精市として、弱った姿をさらすなど考えもしないこと。
矜持の高さも味方した。誰も気づかなかったはずだ。カモフラージュは完璧。けれどそれは、回を重ねるごとに確かに疲れることで。
一人で過ごす時間の多い入院生活では、来客というのはとても嬉しいものだ。わざわざ訪ねて来てくれたと言うのがまず嬉しいし、長引く入院生活の中では気晴らしにもなる。普段の幸村なら本心からの笑顔で迎えられるものだった。
けれどそれを差し引いても、あの日、幸村は疲れていた。朝からみっちりと検査があり、まだ慣れていない治療もいくつか受けた。何本か血も抜かれて、普段話したことも無い医師とも会話をした。
正直な話、気疲れでさすがの幸村もへとへとだった。そんな時に、普段それほど交流があるとは言えない二人だ。親しい仲間達とは気の使いどころが違う。
けれどもそう簡単に、そんなことを見抜かれるような幸村ではない。つとめて平静に、いつもどおりに対応していたのに。
していたはずだった。だが、見抜かれてしまったのだろうか。彼女にだけ。
「幸村、授業が始まるぞ」
「ああ、真田か。すぐ行く」
廊下の向こうでこちらを伺う真田の姿が映った。
いつの間にか立ち止まっていたらしい。軽く頭を振って記憶の残滓を振り払う。
気にすることは無い。ただの、クラスメートの話だ。学校に来れるようになって再開した彼女の態度は入院する前となんら変わりなかった。お互い気にしない、という方向で互いの関係に決着は付いている。
それでも、と幸村は思う。それでも、何故か、ふとした時にあの時の彼女の言葉か頭をよぎる。なぜ、彼女はあんなことを言ったのか。どういうつもりで言ったのか。気づいていたのか。
――知りたい。
手にした教科書をぎゅっと握りなおす。ふと振り返ると、保健室から漂ってきたあの香りはもうすっかり消えていた。
記憶の中の消毒液の匂いに別れを告げ、幸村はもう一度静かに歩き出した。
学校20題「07.保健室の薬品の匂い」