時間外授業
何に驚いたかと聞かれたら。
言われた言葉より、テニスで鍛えた自分が反応できなかったほどの彼女の俊敏さ。それと、彼女の出した答えにだった。
「それが君の戦い方?」
笑いと共に突きつけられたのは、さっきまで自分の胸ポケットに納まっていたはずのボールペンだった。触れるか、触れないか。紙一重のきわどさで柳の眼前にある。
その気になれば一息で、彼を失明に追いやれるだろう距離だ。
驚きはした。けれど、それは彼女に対してであって、この事態にではない。
微動だにせず見返す柳に、ほぅと見返す視線が届く。続いて、呆れたような苦笑が。
遠ざけられるペン先。
くるりと彼女の手で一転させられたかと思うと、悪かったな、と柳の手に差し出された。
「合理的だが、いつも賢く立ち回るなんて退屈じゃないのか?」
まあ、習い性になっているんだろうがね。
そう言って、口の端をにっと吊り上げる彼女を見て『なるほど、見かけによらず好戦的』と頭の片隅に留める俺は、確かに彼女の言うとおり習い性になっているのだろう。自覚もあるし、よく言われることだ。
苦笑して、差し出されたペンを受け取った。
に近づいたのは、意図があってのことだった。
スポーツの名門校、立海大付属弓道部で女だてらに部長を務める彼女は、一般の女子生徒より、一つ頭の飛び抜けた存在であった。弓の扱いはもちろん、その凛とした立ち居振る舞いもさることながら、それ以外でも人の注目を集めることが多かった。
まあ、そのほとんどは、堅実な外見を破る突拍子も無い言動によってなのだが……。
ともかく。彼女は年頃の女性であり、そして周りには年頃の男がいた。
つまりは必然的に、そういった目で見る輩も幾人かいて。
その中に我が立海テニス部の部長がいたのだから、興味を持つなと言う方が無理な話だ。柳は速やかに行動に出た。
校内の主要な人物の情報は把握済みだったため、彼女に関しても基本的な事項はすでに押さえてあった。誕生日、血液型、交友関係に学校の成績。その他、いろいろと。
けれど今回はそれ以上の情報が必要であった。手始めに目下一番彼女と親しいと目される人物――なんと、弦一郎のことだ――に話を聞いてみたのだが、いきなりつまずいた。
頑として、口を閉ざしたのだ。
「……俺の口からは言えん。本人から聞くことだ」
そう言ったきり、渋い顔をして黙り込む。
こうなると弦一郎はてこでも動かない。柳は早々に見切りをつけた。
次に彼女の交友関係から当たってみたのだが、これもまた不可思議な結果に終わった。
彼女の人柄に関する情報や、本当かと疑いたくなるような数々の逸話は早々に集められた。しかし彼女のプライバシーの領域(特に家や家族の話になると)それまで調子よく話していた人物が皆、途端に口を閉ざすのだ。
しかもそれは意図して黙っているのではなく、本当に知らないらしい。彼女の親友と目される人物ですら。
こうなってくると、俄然(がぜん)興味が増すのが人の性である。いくつかの方法で探りを入れた後、試験的に、柳は彼女に近づいた。
偶然を装った出会いから始まり、何度かそれらしい理由をつけて話しかける。少し親しくなったあたりで、彼女の好みそうな話題を振って警戒心を解く。そして、本題。
そこに至ろうとした矢先に、こういった事体になってしまったのだが。
「いや、退屈ではない。人は時としてデータ以上の動きをするから、それを引き出すのもまた一興だ」
例えば、今のように。
口にはしなかったけれど、その続きを察したのだろう。そういうものかね、と彼女は肩をすくめた。
はこういう仕草がよく似合う。現代の若者には珍しい古風な口調とあいまって、一種独特な個性を体現している。
「だがしかし、君の言葉は心に留めておこう。そういうのも、たまにはいいかもしれないから」
驚いたように片眉を上げたところを見ると、どうやらこの反応は予測して無かったらしい。彼女らしからぬ隙に、珍しいものを見たと柳は思わず目を見開いた。
――引き分け、と言ったところか。
苦い笑いが、自然とこみ上げる。
想定外の反応はどちらも同じだったらしい。二人そろって『こいつは……』と互いの距離を測る姿勢に変わったからだ。
まだまだ、互いに学ぶ所があるようだ。
本日の彼女に関する事項にはこう綴ろう、と柳は一人、心に決めた。
学校20題「08.時間外授業」