ソラ駆ける虹

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「あの……」
「…………」

 扉の向こうには、つい先ほど自分の首を絞めていた彼の姿があった。その顔は、奇妙な面に覆われていてよく見えない。
 けれど、どこかばつの悪そうな。
 怒っているのに逃げているような、そんな雰囲気が感じ取れて。

「お水、頂いたよ。ありがとう」

 不思議と自然に言葉が出た。
 彼自身が持ってきたのではないかも知れないけれど、彼が来るまで無かったものが新しく置かれていたのだ。誰かに用意するように言ってくれたのかも知れない。
 声がかすれるほど痛めつけられたのは確かだけれど、彼の姿を見て、不満もどこかになりを潜めてしまった。

 締められた人間より、締めた人間の方がおびえているなんて、何だか奇妙な感じだった。
 そんなふうに思えるほど、彼の心が不器用に揺れているのが見て取れた。

 礼を言うと、すっと顔をそらされた。
 そのしぐさが、昔、たった一度だけ会話した時と変わらなくてなんだか懐かしかった。




「――こっち、来て」

 ふてくされたような声が、を促す。
 少年は扉を開けたままこちらに背を向け、ついてくるように言った。

「出ていいの?」
「いいから言ってるんでしょ。早く、時間が無いんだ」

 言うと、さっさと歩き出してしまう。

――付いて行って良いのだろうか?一瞬、の頭に警告がよぎった。

 自分を連れ去ったのは別の人物だったが、見たところ同じ『神託の盾騎士団(オラクル)』にこの少年は所属しているようだ。そんな彼が、本当に信じられるのか。
 とっさに判断がつかなかったのだ。

 とは言っても、このままここにいてもらちがあかない。あわててベットから腰を上げ、何も答えない少年の後をついて歩く。
 道行の途中、掲げられた旗から、どうやらこの船はマルクトのものだということが分かった。

 なぜ、ローレライ教団の騎士がマルクトの船に?

 疑問に思いながらも、ところどころに刻まれたマルクト帝国の文様を目で追いながら歩く。
 ふいに前を行く彼がとまった。

「え?」

 ぽん、と小さなリュックと、手のひらサイズの皮袋を渡された。
 受け取ったとき、金属がこすれるような音がしたところを見ると、中には少なくない量の貨幣も入っているようで。
 驚くに目もくれず、彼は壁にあるスイッチを操作し外壁を開けた。

 むわっとした熱気と共に目の前に広がるのは、見慣れたケセドニアの町並みだ。遠くにアスターさんの屋敷が見える。
 思わず一歩前に進み。
 思い出したようには背後の少年を振り返った。

 視線の合った彼は、やっぱりばつが悪そうにふいっと顔をそらして。

「どうしてこんなところにいたのか知らないけど、ここからなら世界のほとんどの所に行けるから。――さっさと行きなよね」

 言って、くるりと後ろを向いてしまった。
 味も素っ気も無い彼の背中に、なぜだろうか、とっさに手が出てしまって。

「――なに?」
「あ、」

 不機嫌そうに少年は振り返る。
 何か考えて動いたわけじゃなかった。だから正面から問いただされて、は何も言えなくなった。

 仮面の奥から見える彼の瞳は、に捕まえられた己の袖を見て。
 けれどそれを振り払うこともせず、もう一度を見返す。

 視線が「早く行け」と言っている。
 そこには何の打算も無く、むしろさっさと逃げ出さないに怒っているかのように見えた。
 そんな相手に、一瞬でも疑いを持ってしまった自分をは情けなく思って。

 なぜと言う疑問は消えない。
 けれど逃がしてくれるつもりでいるようだった。だから――。

「ありがとう」
「……」
「ありがとう。本当に」

 仮面に覆われて顔は見えない。
 けれど握り締めた袖から伝わる動きで、彼が小さく息を呑んだのがわかった。
 それにつられて仮面の奥を覗き込み――。次の瞬間、乱暴に腕を払われた。

「余計なこと話してる暇があったら、さっさと出て行ってくれない。邪魔」

 次いで、軽く突き飛ばされる。
 とっさのことに受身も取れずに背中から砂に倒れこんだ。そんなをフンと鼻で笑い、少年は船の隔壁を降ろした。




 戦艦が走り去ったのをしばし呆然と見て。

 立ち上がり、は歩き出した。
 照りつける太陽の中、歩いて、歩いて。ようやくケセドニアにたどり着いた頃には、日が沈む寸前だった。
 濃い夕日の中、沈む日を背にして走る。
 どこの世界も、夕日の色は変わらない。この砂漠の世界にも、じきに夜が訪れる。

 出てくるときと変わらない町の様子を横目に、早足に家を目指す。
 と、途中途中で顔見知りの商人さんや、贔屓にしている食材屋のおばちゃんに声をかけられた。
 案の定、心配した店長があちこちに声をかけてを探してくれていたらしい。「早く帰って安心させてやれ」との言葉に手を上げて返し、は市場を駆け抜けた。


 目の前にある、どっしりとした樫の木製の扉を押して開く。
 カランと鳴る呼び鈴の音。
 一拍して、響いたのは――。

「こんりゃ小娘! どこほっつき歩いとったー!!」

 ほっと顔を緩めた店長の優しい笑顔と、怒り狂ったイミル爺さんの怒鳴り声で。

「――、すみません。ただいま帰りました!」

 ただいまと言える場所がある。
 その事実に、何だか泣いてしまいそうだった。




 ――それから数日。




 迷惑をかけた人たちへのあいさつ回りも終り、ようやく日常を取り戻しかけた頃、その知らせは届いた。

 導師イオンが、崩壊したアクゼリュスと共に地核に落ちたとの事だった。

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