夜が、明けた。

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 ――私が囮(おとり)になる。

 そう譲らない姫に、常世の皇子は馬鹿を言うなと一喝した。

「さっきの話、聞いたでしょう? 何故かは分からないけれど、アレの狙いは私なんだから」

 自分が囮になれば、絶対に奴は食いついてくる。兵の陣形も崩れるだろう。そこに、突破口ができるはずだと、千尋は言うのだ。
 対するアシュヴィンの反論も的を射たものだった。――お前一人で何ができる。そう辛辣に言い放った。

「相手は数千に渡る大軍だぞ。当然、対空手段として弓兵も多くいる。いくら麒麟に乗っているとは言え、逃げ延びられる保障などどこにも無い」
「逃げ延びるつもりはないわ。私は、相手を誘い出しに行くのだから」
「それならなおさら一人でやるわけにはいかない!!」

 ついには自分も一緒に行くと言い出す始末だ。それじゃあ誰が本隊を指揮するのと言う、全うな千尋の意見も聞く耳無しである。
 予(あらかじ)め、指示を出しておけばいいと言い放った。

「大将が出て来てどうするの!?」
「お前にこそ言われたくないな。后が出ているのに、その夫が後ろに隠れているとはどういう了見だ」
「一番大事な部分だからこそ、あなたが指揮しなければいけないんじゃない!」
「最も重要な囮役こそ、相手が食らいつくような餌を出すのが常套ではないか」
「あなたに何かあったらどうするの!」
「お前こそ、何かあったらどうするんだ!」

 犬をも食わない何とやらである。
 心なしか、二人の騎乗する麒麟達の間にも何とも言えない、微妙な目配せが交わされている。


 こんな二人の、目も当てられないやり取りが一応の終結を見せたのは、ほんの少し後。
 流暢に響く豊葦原の祝歌(いわいうた)を耳にしたからであった。








 もうすぐ夜が明ける。

 徐々に白み始めた宵闇の中、息を潜めて千尋たちはその瞬間を待っていた。
 ごくりと、音を立てて喉が鳴る。それに感づいて、騎乗した麒麟が伺うようにわずかに身震いをした。そんな白い背を、なだめるように(あるいは自分を落ち着かせるために)千尋は撫でる。

 明かりもつけない、星明りでの行軍は、思っていたより精神的な負担が大きい。声一つも発しない道行きは、黄泉につながる道を進むかのようで、知らず息が詰まる。
 それも当然の事だった。今から自分達は、強大な敵を相手に戦を仕掛けるのだ。息の一つも止まろうものである。
 豊葦原の兵の緊張は、極限まで高まっていた。

 それを率いる千尋の重責も計り知れないものであった。
 今まで幾度と無く勝算の薄い戦を経験して来たが、ここまで内腑をわしづかみされるような感覚は、かつて無いことだった。なにせこの戦は、決して敗退は許されないのだ。

 ――犠牲者を出しても、引く事はできない。

 孤立してしまった皇子の軍を救うために、何がなんでも活路を作らなければならないのだ。多少の死傷者は、覚悟の上で進まなければならない。そのことを、千尋は良く理解していたし、そしてそれは、同行する兵士達も同じであったのだ。

 驚くべきは、兵士達であった。
 常世まで千尋に付いて来てくれたのだから、元から性根の座った輩(やから)達ではあったが、誰一人、逃亡者が出なかったのだ。これは驚嘆に値する出来事である。

 こんな時、鍛え上げられた兵隊でも、本能的な恐怖から脱走を企てるものなのだ。それが、二ノ姫率いる軍は――むしろ平民から募った者達ほど――しっかりと地に足を据えて背筋を伸ばしている。
 かと言って、恐れが無い訳では無い。今でも落ち着かない様子で、腕をさする者や、胸に仕込んだお守りをぎゅっとにぎりしめる者、じっと静かに息を整える者など、あちらこちらで見受けられる。

 死に対する恐怖が無いのではないのだ。
 ただ、それ以上に強い思いが、彼らの瞳には宿っていた。

「我が君」

 まるで影のようにすっと忍び寄ってきたのは軍師、柊であった。

 ――万事、抜かりなく。

 囁(ささや)く様に伝える相手に、千尋は頷くことで返した。大きく息を吸う。
 細い髪が、さらりと肩を揺らした。



 一条の光が差した。
 それは過(あやまた)ず大地を駆け、乾いた荒野を白日の下に晒し、小高い丘の上に立つ二ノ姫の姿を照らし出す。

 ――光冠だ。

 誰一人反らす事無く、その瞳に、光放つ姫の姿を焼き付ける。

「さあ、行こう!」


 ただ静かに、その歩みは始った。




 夜が、明けた。

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