男は鳥の羽ばたきにも似た音を聞いた。

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「見失ったか……」

 そう言って空を仰いだのは、逃げる中つ国の兵を追っていた男だった。その年、二十半ばであろうか。まだ若い男である。
 けれどその若さを裏切る冷静さと判断力を評価され、小隊を任されていた男であった。先行する他小隊の動きを援護するように、一直線に追い落とすのではなく、やや側面からの追撃を行っている。

 少し離れた位置から戦局を見ていた彼らであったが、どうにもぬぐいきれぬ違和感を感じていた。
 それは、敵兵の逃げ込んだ、この土地にある。

 岩砦の東側にある岩壁地帯だ。
 どんな神の御技なのか、はるか昔よりここには、まるで山かと見紛うばかりの巨石が立ち並び、迷路のような様相を呈しているのだ。当然、視界も悪い。
 土地勘のある自分達ですら迷いかねない道行きだ。まだ常世の国に降りて日の浅い中つ国の人間には、逃げ込むにしてはなかなか過酷な地帯でもある。
 まさか罠でもしかけてあるのかと様子を伺い、物見も向かわせた。しかし、特に異常は無いと言う。

 不審な気はした。だが、見ているだけではみすみす敵を逃してしまうことになる。
 充分注意を払った上で、彼らはこの地に足を踏み入れた。
 そして――。

「ぎゃ!!」
「な!? ど、どこから!?」

 先行していた部隊から、悲鳴が上がった。
 案の定かと身構えるが、何か仕掛けが動いた気配も、後方から挟み撃ちされた様子も無い。
 怪訝(けげん)に思い左右も見渡すが、隠し通路のあとも見受けられなかった。
 どこから攻撃を仕掛けてきたのか?
 男が不可解に眉を寄せた時、その答えは訪れた。

 ――敵は頭上から現れた。

「そんな、馬鹿な!?」
「人が登れるような岩ではないのだぞ。いったい、どうやって!?」

 立ち並ぶ岩々は、まるで木の板のように垂直な面を向け、地に突き刺さっているのだ。足場も無い。
 自力で登れるような代物ではないのに、いったい、どうやって――?

 降り注ぐ矢の雨をかいくぐり、男は頭上に目を凝らした。
 照りつける太陽に目がくらむ。そんな中、男はバサリと、鳥の羽ばたきにも似た音を聞いた。

「……そうか。これが、噂に聞く翼持つ一族の――!?」

 男の意識は、そこで完全に失われた。








 豊葦原の陣中。
 その中で、千尋は麒麟にまたがり、ただ静かに戦場を見つめていた。

「……」

 苦い思いが胸にこみ上げる。
 何度戦を経験しようと、この光景に慣れる事はできなかった。
 今、この場で、多くの命が失われているのだ。荒野を駆ける烈風に混じって、血の匂いがする。

 それに一瞬怯(ひる)んで。

 けれど千尋は顔を背ける事はしなかった。それが自分の義務だと思ったから。
 震える手をぎゅっとにぎりしめ、息を整え心の平静をはかる。
 気遣うように白い麒麟が身を揺らした。

「大丈夫。――さあ、出番だよ」

 振り返る白麒麟の首の背を軽く叩いた。
 少しためらった麒麟だったが、背にした乙女の願いには逆らわなかった。
 滑るように優雅に、乾いた常世の空へと躍り出たのである。



 その様(さま)は、まさに降臨と呼ぶに相応しい姿であった。
 真白き神獣の背に乗る少女が、黄金色に輝く髪をなびかせ、荒れ果てた荒野を一人静かに駆けてくる。

 まるで神話の中のような光景に、常世の兵達は一様に心を奪われた。

 まず、物見の兵が。
 そしてその異変に気づいた兵から、先ほどの伏兵の意図を測るため軍儀を開いていた武将格の者達まで、静まり返る陣中の様子を不審に思い天幕を出て、そして天空を仰いで硬直した。

(何だというのだ、あれは――)

 予(あらかじ)め、名の通った武将達には、皇から通達があった。

『中つ国の二ノ姫こそ災いの源。必ず殺せ』

 その話を聞いたとき、彼らはそれほど重く受け止めていはいなかった。
 近頃の彼らの主君は明らかに様子がおかしかった。国土が荒れていても何の手も打たず、側近も近づけさせず、一人天に浮かぶ禍日神を仰いでいる。忠臣と言われた者達をささいなことで見殺しにし、幾たびも意味の無い戦を繰り返した。
 賢王と言われた人、その面影すら無い。

 度重なる異様な命令に、彼らの心も次第に麻痺して行った。
 都合が良かったのは、殺す対象が敵国の姫であったことだ。自国の皇子を殺せと言われるより抵抗が無かった。
 かしこまって拝命したのだが……。

 あるいは、主君の命は正しかったのかもしれない。この光景を見て彼らは一様にそう考えた。
 そう思わざるを得ないほど、出現した白い麒麟と年若い乙女の姿は、荒んだ戦場において、神々しいほどに異常な光景に感じられたのである。


 そんな中、いの一番に我に返った部隊長は呆然としている部下達を一喝した。

「何を呆けている! あれこそ皇(ラージャ)御所望の娘だ。首を取れ!」

 夢から覚めたような表情で、はっとした兵達は急ぎ手に武器を握り直した。
 しかし先ほどの襲撃で、遠距離攻撃が可能なものはそのほとんどが破壊されている。後に残るのはいくらかの弓と石つぶてぐらいだ。とても天空を駆ける麒麟に届くはずも無い。

 じりじりとした思いで少しでも相手が近づくのを待っていた、その時であった。



 思いも寄らぬ所から、強襲を受けたのだ。


 
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