自分が、皇女であるために。
式の日取りも決まりそれに伴う仕度がひと段落した頃。
千尋はようやく、一人の時間を持つことが出来た。それまでは、あれやこれやと、まるで津波のようにしなければならない事が押し寄せてきて、ろくに考える時間も無かったのだ。
――いや、考えた所で意味の無いことなのだろう。
これが一番良い方法なのだ。中つ国にとっても、常世にとっても。
頭では理解しているのだ。けれど、そう。どうしても……。
夕暮れに染まる葦原を一人眺める。その心は揺れていた。
王女としての千尋と、現代で育った千尋が、胸の内でせめぎ合っているのを感じる。
裳裾をなびかせ皇女は言う。これで良かったのだと。仕方の無いことなのだと。王族である者の定めなのだから、と。
スカートの少女は叫ぶ。本当に良いのかと。結婚とは、好き合った者同士でするのが本当ではないのかと。
どちらにもそうだと思う気持ちがあった。だからこそ、千尋は少女の声から耳をふさいだ。
自分が、皇女であるために。
そして自分に言い聞かせた。大丈夫。ただ時期が早まっただけのことだ、と。
もともと、龍の声も聞けず、二番目の姫に生まれた身だ。王位は姉姫が継ぐと決まっていただけに、千尋の身の処する場所は限られていた。
有力な豪族に嫁して王家の地位を強固にする道具にされたか、一生龍神を祀る宮に閉じ込められて祈りを捧げる日々を送るか。
それぐらいしか道は無かったのだ。好いた相手の所に行ける可能性など、無いに等しかった。
姉がいなくなっても同じことだ。豊葦原王家の生き残りとして、どこか適当な身分の相手をあてがわれて、女王として立つ以外有り得ようはずがない。
遅いか早いかの問題だ。それに、見ず知らずの相手より、多少気心の知れた仲間が相手になったのだから、むしろ幸せな方だろう。
千尋は大きく息を吸った。
この婚姻は、成し遂げなければならない。自分は、豊葦原の姫なのだから。
沈む日の光を受けて、金色の野原が真っ赤に染まる。
強く吹く風がその穂先を揺らし、まるで炎の波が大地を駆けるかのように見える。
遠く山の向こうには、飛び立つ鳥の姿が。それを追うかのように流れる雲。
中天には気の早い月の姿が見えた。じきに夜が訪れる。夜空を浮かぶ星々は、この豊葦原の地を優しく照らすだろう。
美しく、懐かしい景色だ。
そのどれもを、心から守りたいと思う。その思いに嘘偽りは無い。けれど。それでも――。
胸の奥で叫び続ける少女の事が、頭を離れてくれなかった。
常世の国に残る部下への指示を一通り済ませて、アシュヴィンは短く嘆息した。
――ああ、うっとおしい。
「何か言いたいことがあるならはっきり言え、リブ。俺は読心の術の心得など無いのだぞ」
そう叱責を受けたのは、つい先ほどまで流暢に報告をしていた彼の部下である。
いつもと変わらぬ張り付いた笑顔であるが、それなりに長い付き合いだ。主たる皇子は、その中にある些細な変化も見て取れるようになっていた。と、言うか、今なら誰でも読み取れるのではないだろうか。笑顔の中にも、何か言いたげな視線を感じるのだ。
つまりは、目は口ほどに物を言う。
「あーそれは確かに無さそうですね。ですが読めない割りにひどく的確に人の神経を逆撫でする発言が出来るのは殿下の長所と言うか短所と言うか……」
「話をそらすな、リブ。先ほどからずっとお前の目はそのままだ。何か一つ口に残しているのに、そのくせ自分からは決して言おうとはしない。――俺はそれほど気の長い男ではないぞ」
じろりと睨むと、その視線から逃れるようにリブの瞳が宙を泳いだ。
どうやら本当に口にして良いのか決めかねているらしい。どうにも珍しいことだった。
往々にして、リブは必要と思ったことならば、たとえアシュヴィンが聞き苦しい思うようなことでも口にする男であった。だからこそ重宝していると言ってもいいし、相手もアシュヴィンがそれを望んでいると分かってやっている所もある。
さすがに出すぎた事があればたしなめはするが、お互い納得ずくでやっていることなのだ。
だからこそ、ここまでリブ口を割らないとなると、逆に興味をそそられた。
強い口調で言えば逆らえないことを武器に、せいぜい威高々に言い放った。
「話せ。これ以上は待たん」
皇子の本気と関心を読み取ったのだろう。妙に困った様子でリブは眉を寄せる。そうしてようやく、戸惑いながらも口を開いた。
意を決した相手の口から飛び出したのは、明日、自分の妻になる姫の名前だった。
「――龍の姫か。それがどうした?」
問い返すと『これだから殿下は』と言う目で見られた。
果てはこっそりとため息を吐かれる始末だ。さすがのアシュヴィンもむっとした。
「何だ、その態度は。一人で納得してないで早く話せ」
「殿下、本当にお気づきになっていないのですか?」
「だから何にだ」
要領を得ない返答に苛立ちだけが募る。
いったいあの姫が何だと言うのか。
「……このところずっと姫が思い悩んでいることに、です」
「なんだそのことか」
ようやく合点がいった。蓋を開ければなんてことはない。
「王族に生まれた者の務めだ。あの姫も承知のことだろうよ」
そう言いながらも、ふと、先日の会合の時に見えた千尋の表情が脳裏をよぎった。
苦しそうな、不安げな、どこか頼りない少女の顔が。
「…………」
それは今まで見てきた、豊葦原を率いる冷静な将としての二ノ姫の姿とは、どこか違いがあったようで。
「……せいぜい急すぎて気持ちがついてこない、と言った所か」
若干のひっかかりを感じながらも、アシュヴィンはその考えを打ち切った。
儚く、清浄なる龍の姫君とは言え、皇族は皇族だ。それを、まるでそこいらにいるただの娘のように考えることは、相手に対する侮辱のように思えて。
「そのうち立ち直るさ」
それぐらいには、あの姫を評価していたのである。
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