『――綺麗だ』自分でも珍しいと思うほど素直に感嘆した。

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 女王の装束に身を包んだ龍の姫を見て、アシュヴィンは自分でも珍しいと思うほど素直に感嘆した。

 ――綺麗だ。

 口にも出してみたけれど、当の姫はお気に召さなかったようだ。恐ろしく複雑な表情で、短く礼を言われた。
 どうやらまだ割り切れていないらしい。皇族の女にしては往生際が悪いと言える。……いや、別段、悪いというわけでもないか。少なくとも、逃げ出さず式には顔を出したのだから。

 それにしても、晴れの席でのこの無表情ぶりはどうか。凍りついたように冷たく動かぬ瞳が、姫の心がここに無いことを物語っていた。

 ここまで見事に拒絶されるとは。

 いくら望まぬ相手との婚礼とは言え、せめて己の民に笑みの一つは振舞ってやればよいものを。苦い気持ちが胸にこみ上げる。 

 氷のような花嫁を前に、それでも、不快には思わないのは何故か――?
 視界を掠める姫のまとう薄絹を横目で追いながら、アシュヴィンはそんな他愛の無いことを考える。

 (これもこれで綺麗だが、花で飾った方が数倍美しかろうに)

 ――今更言っても、詮無きことか。そう自嘲して、口の端に皮肉な笑みを刻む。
 しかしそれもまた一瞬で。


 次の瞬間には、隣に立つ后と同じように、常世の皇子は笑みを消した。





 婚礼の儀式を無事終え、後は常世の国へと赴くだけの千尋であったが、その思いはまだ深い闇の中にあった。

『――あなたです、姫』

 常世の国への出発直前に言われた、狭井君の君の言葉が頭に響く。

『この国が続く限り、一番大切なのは国を導く君主。つまり』

 国の行く末は、王が決めるもの。だから、千尋が一番大切なのだと。
 だから婚姻を結んだとは言っても、それは一時だけのことだから。この中つ国を一番に考えるよう、狭井君は言った。
 常世の国の皇子とは、利害が一致している間だけの関わりなのだから、と。

 でも、それで本当にいいのだろうか?

 千尋には分からなかった。






「迷子だなんて、馬鹿にして!」

 先ほど浴びせられたアシュヴィンの言葉を思い出して、千尋は苛立ち混じりに足を進めた。ただでさえ置いていかれて複雑な心境だったのに、ようやく常世の国にたどり着いてみれば、当の本人は不在。
 それでも、味方作りに忙しいからだと我慢して、何か手伝えることはないかと申し出てみればこの答えだ。いい加減、腹を立てても仕方のないことだろう。

(幽宮(かくりのみや)の構造でも覚えておけ、なんて)

 暗に邪魔者扱いされたも同然だ。大人しくしていろ、ということだろう。痛烈な、戦力外通告である。
 思い出してむかっ腹が立った。千尋は内心の不満もあらわに、きりきりと眉を吊り上げる。

 が、しかし。何と言うことだろうか。

 腹立ち紛れにざくざく歩いていたせいだろうか。実際、迷子になってしまった。人通りの無い回廊を前に、千尋は一人息を飲んだ。

「…………うぅ」

 反論の余地も無いこの状況と、歩き疲れて千尋は渡り廊下の柱の影にうずくまった。
 がっくりと肩を落として頭を伏せる。ため息を一つ。

(ああ、役立たず……)

 しばし自己嫌悪におちいる。
 そうしてしばらくして、ふいに、前方に気配を感じて。

『……いた。神子……』
「遠夜?」
『ここに、いた』

 顔を上げた先には、言葉はしゃべれないが不思議な癒しの力を持つ土蜘蛛の青年、遠夜が心配そうな表情でたたずんでいた。




『それは、神子のため』
「え?」

 物柔らかな遠夜の雰囲気に甘えて、つい今あったことを愚痴っていたら、遠夜がぽつりと言葉を発した。

『だと、思う。……常世の国は、今とても危ない。荒霊(あらみたま)だけじゃない。人の思いがひどく混在して、神子を害するかもしれない。だから――』

 言葉は淡々としていたが、その表情は、ひどく心配そうだ。
 そんな遠夜の顔を見て、千尋は大きく息をついた。人に話して、ようやく冷静になれた。
 慣れない土地で、どうやら知らない間に気が張っていたらしい。それで八つ当たりをするなんて、なんとも情けない話だ。
 肩の力を抜くように、一度大きく息を吸って、気持ちが落ち着くのを待つ。
 赤茶けた常世の国の風景が、弱い心を叱咤しているようだ。

「本当はね、わかってる」
『……』
「さっきね、妥女たちが話しているのを聞いた」

――国のためとは言え、落ちぶれた皇家の姫とご結婚なんて、黒雷様も不憫なものね――。

 迷子中に、ふと耳に入ってきた皮肉な言葉を思い出し、千尋の胸が重くなった。
 それは言われた内容のせいでもあったけれども、それ以外にも理由があった。


 少し前に、同じような出来事があったのだ。あの時は舞台は中つ国で、言われたのはアシュヴィンのほうだった。

『所詮裏切り者の敵国の輩よ。二ノ姫様のご厚情で生かしてもらっているだけであろうに!』

 腹の立つ言葉ではあったが、それは紛れもない中つ国の人の心情の一部でもあったのだ。
 戦争が残した爪あとは大きい。だから、千尋も同じような事を言われる覚悟をしてきたつもりだった。なのに、この国に来てから、そんなことを千尋に言う人は誰もいなくて。

「変だな、って思ってた。……遠ざけてくれていたんだね、あの人が」

 おりしも、千尋があの時言った言葉と同じ事だったのだ。

『軍に属する人を守るのが私の仕事だもの。私が事前に説明をしておけば、あの事態は防げたかもしれない』

 千尋ができなかったことを、アシュヴィンはちゃんとやってのけたのだ。結局、悪意を持つ第三者の存在に千尋は気づいてしまったけれど、可能な限り遠ざけてくれたのは事実で。

 そうやって、彼は千尋の一歩先を行く。

 最初からそうだった。千尋は、アシュヴィンの背を追うことしか出来ない。それが歯がゆく、もどかしい。

 乾いた常世の空を浮かぶ黒い太陽を、遠夜とふたり、静かに見つめる。
 どれくらいの間、そうしていただろうか? ふいに兵士の言い争う声が聞こえた。

「――なに、アシュヴィン様が?」

 聞こえていた内容によると、幽宮の西方でちょっとした小競り合いがあったらしい。そして、その西方に、どうやらアシュヴィンも向かっていたらしくて――。

「私、行くよ」
『神子?』

 しゃがみこんだ腰を浮かして、千尋は立ち上がった。首を傾げる遠夜を見て、

「心配だもの。せめて、この辺りを探すぐらいは」

 駄目かな、と言う千尋。それに、遠夜は表情も変えずに答えた。

『オレも、ともに行く』

 そうして二人はこっそり宮を抜け出した。言ったら止められると分かっていたからだ。

 日が沈まないうちにと、足早に探索を開始した二人だったが、結局幽宮周辺に大した変化は見られなくて。



 どれだけ探しても、待っても。千尋はアシュヴィンの姿を見つけられなかった。


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