「あまり千尋をいじめないでやってくれませんか?」

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 走り去った后を見送り、憮然とたたずむアシュヴィンに声をかけたのは、やはり常に彼の傍に控えるリブであった。
 振り返りもしない主君に、音も無く近寄る。

「宜しいのですか、殿下?」
「リブか。お前も大概、神出鬼没だな」
「はぁ、すみません」

 ご機嫌斜めの主君に、それほど悪いと思っていない様子でリブは答える。
 いつもならこの後、皮肉の応酬のような言葉遊びが始まるのだが、今回はどうにも勝手が違った。皇子は口を閉じ、やはり憮然とした表情のまま黙り込んでいる。

 わだかまる気持ちを持て余しているらしい。そんな皇子の姿を、珍しいものだとリブは目を見張って眺めた。
 あの姫が関わると、皇子は少し人が変わる。

「せっかくお探しになられていたようですのに」
「……神出鬼没なだけじゃなく、目ざといのだな、お前は」

 じとりと睨む皇子に、再度すみませんと頭を下げる。
 ふんと鼻を鳴らす皇子に、これで調子を取り戻すかと思ったが、会話はそこで途切れた。

 やはり皇子は黙ったままだ。

 こうなればお手上げである。もろ手を上げて降参の意を示し、頭をかきかき、リブは率直に皇子に告げた。

「いいのですか、殿下。妃殿下は部屋に閉じこもってしまわれたようですが……」
「放っておけ。気が済んだら出てくるだろうさ」
「はぁ」

 不器用な人だな、と思った。
 市井の民、誰もが望むもの全て手にしているのに、誰もが持っているものはその手に無い。
 今も、なぜ自分が非難を受けたのか、皆目検討も付かない様子である。

 高貴な人々も、それはそれで大変だな、と苦笑いでリブは思った。








 どうにも歯切れの悪いリブを残して、アシュヴィンは早足に歩き去った。常世の闇の中、一人静かに歩を進める。

 ――どうにも、もどかしい。

 考えることは多々あるはずなのに、どうしても先ほどの千尋の様子が頭を離れない。
 それと言うのも、去り際に見えた、かの姫の表情が問題だった。顔を伏せうまく隠していたが、どうにもその目の端に光るモノが見えた気がして――。

(全く、何だというんだ)

 やりきれない思いで、闇の向こうに見える黒い太陽を仰ぎ見る。
 災いの象徴であるそれは、アシュヴィンにとって格好の気の当たり所だった。いくら苦々しく思っても、はばかる物も無い。

 そうして少しして、背後で砂を踏む音がした。

 アシュヴィンは深く沈んだ意識を戻し、振り返る。暗がりの中、近づいてきたのは、

「……あまり、千尋をいじめないでやってくれませんか?」

 姫の一の従者、風早だ。穏やかな様子であるが、声には一種の苦味が感じ取れる。

「困っているのはこちらの方だ」

 苦々しく返したのはアシュヴィンも同じだ。どうして自分が責められなければならないのか。

「何故あいつは怒る?」

 西域も掌握し、ようやく皇軍と充分渡り合える兵力を確保した矢先のことだ。この成果を称えられこそすれ、貶められる要素など一片も無い。
 なのに先ほどから、姫にはなじられ部下には無言の非難を受け、あまつさえ一介の従者に苦言を呈される始末だ。文句の一つでも言いたくなる。

 へそを曲げたアシュヴィンに対する風早の答えは、困ったような苦笑いだ。視線を宙に浮かせて、どう言ったものかと思案している。

「千尋は、あなたを心配して探しに行ったんですよ」
「心配? 何をだ」

 どこまでも鈍い皇子様である。風早も説明に困った。

「いいですか? ……あなたが怪我でもなんでもして危険な目にあってないかと心配で心配で、たまらなくなって千尋は宮を抜け出したんです。で、意気消沈して帰ってきたら、当の本人は平気な顔をしていて、『散歩か』とか『お前だって出かけてたじゃないか』とか配慮の欠片も無いことを言われたわけです。――どう言うことか分かりますか?」

 ここまでノンブレス。ついでに言うなら、出来の悪い生徒に教えるような口調である。

「……」

 その剣幕に驚いて、アシュヴィンは一瞬反応が遅れた。そして、言われた内容を理解する内に、

「さて、理解したところで、次にどうすれば良いでしょうか」

 徐々に目の色が変わるアシュヴィンに、聡明なあなたなら分かるでしょう、と風早は続ける。その相手に、アシュヴィンは無言で背を向けた。
 たった今来た道を、早足に戻る。




「やれやれ、世話が焼けますね」

 宵闇に紛れて、笑みを含んだ声が響いた。

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