(……そんな。だって私は、彼を好きなわけでは――)
まるで伝え聞いた神話のように、扉を閉ざした千尋が口論の相手であった常世の皇子の謝罪を受け入れて。
玉(ぎょく)のように貴い約束を果たした後。
「もう少し、お前の顔を見ていたいが……」
開いた扉の前に立つ千尋の頬に手を伸ばし、そして触れる直前で、アシュヴィンはその手を止めた。
一瞬惑うように目を細め、こわれ物にでも触るかのように、紙一重の位置でさらりと払う。
ほのかな熱が、千尋の鼓動を一気に早めた。
「夜も遅い。そろそろ暇をするか」
「そうね……」
未練も無くもとの場所に収められた手に意識を取られ、千尋の答えはあいまいになってしまった。
上った頬の熱を悟られないよう、視線を下に落とす。
(……そんな。だって私は、彼を好きなわけでは――)
自問する千尋。
それでも滲み出てしまう何か。
複雑な表情で唇を引き結ぶ龍の姫を見て、アシュヴィンの瞳が一瞬細まり――。
次の瞬間、いたずらに煌(きらめ)いた。
「なんなら、一緒に来るか?」
そう、含み笑いで提案したものである。
ぽかんと顔を上げたのも束の間だった。
その含むものの意味を察して、千尋の顔が瞬時に真っ赤に染まる。
「――っ、な!?」
「冗談だ」
くくっと喉の奥で笑って、皇子はばさりと外套を払った。短く暇の挨拶を告げ、薄暗い回廊を一人歩き出す。
それを呆然と見送る千尋の顔は、熟れた果実のように紅いままだ。言葉も無く、壊れた玩具のようにむなしく口を開け閉めしている。
歩みを進めるアシュヴィンの歩調は、彼にしてはいささか性急なのもだった。石畳を抜ける軍靴の音が、静かな夜に思いの他強く響く。
その瞳に宿る、狂おしいほどの切望を、背後の姫に悟らせないために。
常世の黒雷は、声にならない声で低く笑った。
そうして仲直りを遂げた千尋とアシュヴィンであったが、戦乱の時は二人を待ってはくれなかった。
――根宮(ねのみや)攻略戦。
ついに起こった大規模な戦が、荒れ果てた常世の大地を駆け巡る時節(とき)が来たのである。