ソラ駆ける虹
6
一通りの手当てを受けた後。
消毒薬のしまわれた棚を背に、あの奇妙な仮面がこちらを注視していた。
それにちょっと気圧されながらも、また止められる前に、とは礼の言葉を口にした。
「あの、遅くなったけどこの間はありがとう。助けてくれてすごく助かったよ。この傷の手当ても――」
ありがとう、と最後まで言葉にならなかったのは、ふいに彼が動いたからだ。
ひどく慎重に――ためらいとさえ取れるほど慎重に、彼は口を開いた。
「……どうして」
ささやくように小さな声が響く。
聞かれた意味が分からなくて、は首をかしげた。
「――え?」
「……どうやって、ここに?」
ようやく問われた意味が分かった。
アクゼリュスの一件で、一般旅客者用の船が差し止められている今、どうやってダアトまで来たのか。その手段について聞かれていたのか。
「えーと、その、あの……」
とっさに言葉が濁った。
大した理由ではないのだけれど、職権乱用と言うか、人のコネの乱用なので悪いことをしたような気がしてどうにも気まずい。
お世話になった人に迷惑をかける可能性も考えて、言っても良いものなのかどうか迷っていると、痺れを切らした彼が動いた。
「わ、ちょ、待って。待って!」
組んでいた腕を解き、苛立ちもあらわに近寄る彼には必死で叫んだ。また首を絞められてはたまらない。
両手を突き出し、押しとどめるように叫ぶを見て彼の歩みは止まった。が、やはり不満げにこちらを見ている。
質問に答えろ、と言うことらしい。
「あー……。――アスターさんに、世話になってる人に頼んだんだ。ダアトにも物資を搬入してる商人さんだから、その船に乗せてもらって」
話しながら彼の様子をうかがう。
相変わらず苛々してはいたが、さっきみたいに一触即発、という様子では無くなったので納得はしてもらえたみたいだ。
ほっと一息。
「で、あの。君の名前を知りたいんだけど……」
「今更言わなくても知ってるんじゃない? この仮面に、この装束。名前は結構知れてるはずだけど?」
皮肉付きで低く笑う『彼』と同じ顔が珍しくて、ついまじまじ見てしまった。
反応の鈍いに気分を害して――何? と睨む少年に慌てて返して。
「うわさではね。それでも、君の口からは聞いてないから。こういうのって、最初が肝心だと思うし」
だから、だいぶ遅くなったけれど教えて欲しい。
ふわりと笑って、は手を伸ばした。
「私は。・。……君は?」
あの時と変わらぬ顔で微笑む彼女の手を見て、視界が真っ赤に染まった気がした。
ボクの素顔を知った上で、ボクは誰かって? ――笑わせてくれる。
「アンタさ、本当に馬鹿だね」
「え?」
戸惑うように目を見開く彼女に、悪意を込めて微笑み返す。
「せっかく一度逃げられたのに……また捕まるとか考えなかったの? そう何度も逃がしてもらえるなんて、本気で考えてる?」
言葉に少しずつ殺意を乗せ、ゆっくりと腕を伸ばす。
驚く彼女の肩を捕らえ、薄く笑い。
「このままくびり殺すことだって、ボクには簡単にできるのにさ」
壊さんばかりに力を込める。
細い骨がギシッときしむ音がして、彼女が息を呑んだのが分かった。なのに――。
「大丈夫、じゃないかな」
痛みに眉をしかめながらも、彼女は笑っていた。
困ったように。聞き分けの悪い、友達を見るような顔で。
「何で、そんな」
「逃げないのかって? 私にも不思議なんだけどさ――」
言って、ふっと息を吐く。
額にうっすらと汗がにじんでいる。当然だ。手加減なんてしてないのだ。こんな脆(もろ)い体で、耐えられるような痛みじゃないはず。
「何でだか、大丈夫って気がするんだよね」
こんな状況でも――いや、こんな状況だからか――彼女は笑う。困ったように、そんな自分に、呆れたように。
「何を、根拠に」
「だって君、本気じゃない」
あっさり言われて、一瞬頭に血が上った。
それゆえに下降していく時の温度差はものすごいもので。
「僕にはできないって言いたいの?」
地を這うような声が漏れた。肩をつかむ腕に、更に力を込める。
「そうじゃなくて……。何て言うのかな、勘?」
更なる痛みに顔を歪めながらも、て言っていいのかなこれ?と困ったように視線をそらす。
どう説明したらいいのか。頭をひねっているのが分かる。激しい痛みの上身動き取れないこの状況で、ああでも無いこうでも無いと思考をめぐらせている。
そんな空中をさまよう視線が、こちらを見ないことが、何だかひどく癪(しゃく)に障って。
「――できないかどうか、試してみようか」
「は?」
きょとんと目を開いた彼女にふっと笑みを刻んだ。
次いで両腕をひねり上げる。片手で痛みに顔をゆがめる彼女の自由を奪い、空いた片手で呪いの紋様を刻む。
――右手に、左手に。両の足に、強ばる身体に。
最後に額に触れ、今となってはもう自分とアイツにしか施せない呪(のろい)をかけた。
ゆっくりと。愛おしむように。
両の瞼(まぶた)にささやくように刻まれたそれは。
の意識を深い深い霧の中に沈めていった。